終わるからこそ、美しい。
それは、花火に限った話ではない。
ことの美しさは、決まって、終わり頃訪れる。
劇団四季。君の名は。のエンドロール。
夏の終わり。星野源のエッセイ集の大概最後にある、闘病記。
感動するのは、決まって終わりっ頃。
それは、多分、人のクセなんだろう。
漫才にしても、落語にしても、話はオトさなければ意味がない。同様に、
最後を美しく飾り付けないと気が済まないのだ。
ここで、今日の夜に食べたものの話をしていかねばならないが、そういう最後を美しく飾り付ける、という観点で見ると、
キムチ鍋のシメに、
チーズリゾットが採用されるのも納得だ。
アツアツ、辛さヒリヒリのキムチ鍋。
具を食べきり、お腹も七分目くらい満たされ、
少しの口惜しさと、唇に残るヒリヒリを、
同時に満たす、チーズリゾット。
スープを温め直し、ご飯を投入。
よくかき混ぜ、最後に伸びるチーズ。
この、美しさ。
辛味を少しマイルドに、そして、鍋に残った旨味を全てかっさらう。
簡単さとは裏腹に、今まで食べてきた、キムチ鍋の良さギュッと凝縮した一品になる。
唇のヒリヒリは、チーズの優しさに包まれていく。
これは、まるで、夏の終わりに見る打ち上げ花火だ。
夏は一瞬の矜持。
パッと咲いては、散っていく。
暑さとともに、夏特有の勢いが、どこかへ行ってしまう感覚に陥いる。が、年がら年中その暑苦しさがあったら、それはそれで、困りものだ。
夏が終われば、肌寒い秋がやってくる。
夏は短くて、終わりがあるから、かっこよくて、美しい。
おんなじなんだ。
キムチ鍋も、一瞬の矜持。
熱さと、辛さに任せて、白菜、もやし、ホルモン、豚バラを駆け込む。時に、むせて、烏龍茶で流し込む。
ほら、気づけば鍋は空。
散っていく花火の亡き骸のように。
無残に残ったスープと、口のヒリヒリは、
どうにもこのままでは、空中分解してしまう。
だからこそ、そこには、チーズリゾットの準備がされてある。
そして、チーズリゾットがあるから、
キムチ鍋は、良くて、
キムチ鍋は、美しい。
誰も、人は終わりのないものには興味がない。
終わりがあるからこそ、人は美しくいられて、
モノは、人を惹きつける。
永遠に続くキムチ鍋に、誰が興味を持とうか。
今日食べたキムチ鍋。
それは、夏の終わりを代弁するような、鍋だった。
歩き、見て、話して、感じた私の20歳の夏。
それも、もうそろそろ、終わる。
終わるからこそ、良かった。と、言えるのだ。
この夏は、私の経験として、これからも私の背中を押してくれるのだろう。
そして、キムチ鍋の終わりには、チーズリゾットがある。
そのことが、キムチ鍋をより良いものにしていく。
ただ食べるだけではない。
同じ鍋をみんなで突っつきあって、汗をかき、
最後は一緒くたに、チーズリゾットになっていく。いとも簡単に、あっさりと終わりを迎えるキムチ鍋と、夏はどこか似ていて、
それでいて、どっちも終わりがあるから、美しく、楽しく、次に待ち構える、秋や、デザートへと、新たな一歩を踏み出せる。
人やモノは、終わりがあるからこそ、美しいのだ。
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