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個の時代だから環境作りにこそ手間を惜しみたくはない

こういう時代に生まれたので、「なんでも一人でやれた方が良い」ように思うけれど、
僕はパンを作り食べること、もっと広く言えば発酵が好きだ。お酒も好き。
だから、この時代に少し思うことがある。

パンを作るとき、ミキシングマシーンに小麦粉、イースト、水、塩を入れて混ぜて練って発酵させて焼き上げる。

これをもっと複雑ないしは多様化させることでバリエーション豊かなパンが生産されている。

イースト、つまり酵母菌の集団が、小麦粉のデンプンの糖を食い漁ってアルコールと炭酸ガスをプップすることによってパンが膨らむ。

中には、イースト(酵母)に、空気中の乳酸菌や、酢酸菌を含むレーズン種なんかを用いる。いわゆる俗的に天然酵母と呼ばれるものだ。

イーストは、サッカロマイセスセレビシエという菌が集まっている集団と考えれば良いのだけど、天然酵母と呼ばれるものは、
より多くの菌が互いに干渉しあっている。
酢酸菌とか、乳酸菌とか。

だから天然酵母と呼ばれるものは、ふくよかな香りがしたり、酸味が出たりするのだ。

菌たちが互いに干渉しあっている状態を、
「ヘグモニー争い」と呼んでいる。
超一流のパン職人は、このヘグモニー争いを利用して、例えばイーストのキツイ香りを、
天然酵母のかぐわしい香りでカバーしたりする。

発酵は微生物による働きの中でも、ヒトにとって有益な働きのことを言う。その反対は、腐敗。

パンは発酵の力で、遠く昔9000年前からヒトに食され職にすらなった。
発酵がなんなのか、それが微生物によるものであるとわかったのは、1800年代のことである。

その何千年もの間、「パン膨らむけどなんでかは分かんない、けど食べる。」そうやってヒトは歴史を紡いできた。

エジプトのピラミッドを建てる奴隷に支給するため、偶然の産物である発酵パンが発展してきたのだが、人類のパンとの向き合い方は、
「よくはわからないけど、膨らむように整える。」という精神性であった。(きっと。)

全部自分でやるのではなくて、目には見えない菌を信用しながら「さぁ!この環境で思う存分やっておくれよ」と足場を整えてやってきた。

さて、僕は今、一旦パン職人への道から寄リ道して、福祉の仕事をしている。

身体障害者が施設を利用し、生産活動を通じて自立することを目的とした施設で、働いている。

身体障害者の人たちを微生物や菌と言ったら悪いとは思うけど、
ヘグモニー争いを用いてさらに美味しいパンを作る職人と、僕は同じことをしていると感じている。

みんながみんな、少し上手く話せなかったり、手足の自由が効かなかったりするのだけれども、一人のヒトとしてなにかをやろうと、何かを思っている。何か考えている。

施設における僕の役割は、あくまで支援。

足場を整えて身体障害者の人たちがよりよく生産的な生活を送れるようにすること。
まだ始めて1週間ではあるが、凄く、この仕事にやりがいのような、充実感を覚えた。

「個の時代だ。」

なんて人は言うし、そうなのだと思う。
なんでも自分でやれたらきっと武器になると思う。

そんな流れとは相反する環境で、
僕はこの時代だからこそ、
「環境って、組織って、大事なんじゃないか」と思うのだ。

安定して発酵させるイーストも、レーズン種のような香りはないし、またその反対に、イーストは安定して他の菌に干渉するから暴走を止めることもできる。

なんでもやれる気がするこの時代でも、
制限があるところから何かを産み出すのは、不透明になりがちだけど変わらないと思う。
それは身体的なことであったり、社会状況や倫理であったりするかもしれない。

なんでもかんでもやれない人が、
何かやれる環境を作り当てはめることで、
個人レベルで、なんでもやれない人でも、なにかやれるようにする。

個の力を信用する時代だからこそ、
組織と環境の中でこそやるべきことは多いと、僕は発酵に学んだ。

なにか他人との密なコミュニケーションは手間だけど、整えるという細部に、大切なことがある気がしている。

ただパンを作りたいだけなら、
菌と菌のコミュニティを作るようなことは、
きっとしないと思うのだ。
福祉もただ、介助すれば良いのであれば、
職員が生産した方が早くていいに決まってる。

手間をかけた環境にこそ、真に個が輝く可能性があるのだと思う。

ぬか床だって、そうでしょう?

寄リ道しているのだけど、なにかがどこかで繋がってる気がして、僕は今とっても楽しく生活している。

近所のケーキ屋さんで、食べかけのケーキを撮るっていう趣味をしたい気分。






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