寝相占い
SNSは私に、「世界との繋がり」を与えてくれた。そして、それは時折、あたかも全てが手に入るような気にさせてくれる。
ただ、現実はそうじゃなくて、手が届かないことを画面越しに見ては、「どうにもならなさ」にやきもきするのだ。
最近の風潮は、「じゃーやればいいじゃん。」である。
まるで誰か、どこか口癖のように「起業しなよ。」を筆頭に、「即時性」が求められているような気がしている。
私にだって、そういう時期はあったのだけど、「やらない」ことに付随する、妄想とか、ロマンを飼い太らせる「自分だけの時間」を侵害してはいないかと、心配になるから、ワーワー言うのはやめてみた。
だって、夜空を見ながら「あぁ、宇宙いいなぁ。」って、大切な人が言った時、「じゃー起業して、スペースシャトル作りなよ。」なんてことは言わんだろうから。
実生活を自身の外殻とするなら、妄想やらロマンと言った虚構は自身の内殻だろうか。
外殻と内殻を分断するものが意識という壁であるなら、壁そのものが外側から破壊され、内側に流れ込んでくるような、えもいえない瞬間が、やってくるのは人類の性であろう。
「半径数メートルの狭い範囲で、確実に手が届きうるコトだけ、愛したい。」
そんな風に、私は、思う。
思えば、小学生の時分から、そういう軟弱気質を磨き上げていた気がする。
勉強机の足とか椅子の部分に、自分だけの城を築き、こっそり買い込んだお菓子を隠しておいた。はたまた、ベットの下の隙間にゲームを隠したり。
今にも掃除にやってきたお母さんに見つけられて、どえらく叱られそうなことをしては、「自分の世界」を飼いならしていた。
小さい子は狭いところが好き、なんて聞くけど、もし仮にそれが本当であるなら、例に漏れず、私も根っからの「狭いところラヴァー」である。
今も尚、その名残が、私を私たらしめているんじゃないかと思う。
まぁ、21歳にもなって、机の下にお菓子隠したりは、しないのだけど。
狭いからこそ、自分の意識が行き渡る。
行き渡った意識は、モノコトを自分ごと化していく。
自身が有する外殻も内殻も自分ごと化することで意識をめぐらせ、モノコトにトレースすることで世界を愛でる。
軟弱気質の私は、リアルと虚構の間で漂っているのかもしれない。
故に、私にとって、狭さは良いことなのだが、たった一つ、狭いと困ることがあって、そしてなにより、それが今日の本筋である。
ことベットの狭さは、如何ともし難い。
ベットに限った話であれば大きければ大きいほど、愛でれるというものだ。
ついこの前まで、地獄の睡眠生活を送っていたのだが、何はともあれ、それは常用しているベットが、猛烈に狭いことに起因していた。
寝返りしたなら、体と掛け布団は、みるみる離れていき、掛け布団がベット下にズリ落ちるその様は、まるで、母をたずねて三千里と言ったところであった。
冬の山梨を襲う、猛烈な夜の寒さに身を投じ、掛け布団無しで数時間の睡眠を余儀なくされるわけである。
元来、寝相が悪い私であるから、「ベット使うなよ」という話なのだが、ベットの片付けもけだるいので、せめて、この無常な寒さと、憤りすら感じる朝の体調の悪さを和ませるために開発したのが、「寝相占い」なのだ。
ルールは、手相占いの8倍簡単。「朝起きた時点で、掛け布団が全てかかっていたら今日はいい日。」ただそれだけである。
SNSがなんとかとか色々、ワーワー言ったところで、私の生活ぶりなんて、手のひらサイズのなんてことない生活なのだ。
風邪引くか否かを心配している私と同じ空の下、別の所では生死ギリギリで生活している人もいる訳で、この世界のままならなさは、私ではなんともし難くて、また少し、私の夜をえもいえないモノにしていく。
世界というものが、クラスルームくらい狭きゃいいのに、って、スマホを横目に感じるのだ。
どこにいても、どんな寝相占いであっても、せめて朝くらいは、皆等しくイイものであればいいな、と祈っている。
「なんてことないこと、と、当たり前であることは相関関係ではなくて、
なんてことないことは、決して、当たり前ではないんだよなぁ。」
こんな朝の祈りすら傲慢に感じるほど、私にとって世界は広く、如何ともしがたい。
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