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きっとちょっと大袈裟な話

「いくら流行ってるからって、タピオカに2時間も並ぶなんてそんなアホな。」と、
Twitterをスクロールしたのが2日くらい前だった。

僕はぼんやりではあるもののいつも頭の片隅で
「待つこと」について何かを思っている。
きっと多分、今この水面下に広がる自身の生活が、これからの自分のどこに繋がってるのか、
未だ分かりかねる不安を押し殺すためだ。

中学から大学まで順調に教育を受けさせてもらって、すっかりマークシート方式のテストに慣れ親しんだ僕の遺伝子は、次第に、「すぐに答えを出すこと」を無意識のうちに望むようになった。

部活の顧問に歯向かって、それが正しいことのように思えた青々とした時期を通り過ぎ、酒を飲み、友達に迷惑をかけ、また同様にして因果めいたものの様に、酔い狂った友達の介抱などして大人になった僕は、すっかり頭も良くなり、何かある問題に対して自分で解決案、最適解を求めることも叶うようになった。

いつしか僕は、待てなくなっていた。
目先の問いには答えがあるものだと、そう思うようになった。そのことを自身に対してはもちろん、他人に対しても期待するようになっていた。
本当は、これから僕がどうなるか、今すぐ知りたい。5年の僕は、福祉の仕事を辞めパンを立派に作ることが出来ているのだろうか。

仕事柄、毎朝車を運転する。
社会福祉施設を利用する障害者を僕は、お迎えに行く。決まってローカルラジオを聴くのだが、「ワカモノの選挙に対する関心」をピックアップしたニュースで、アナウンサーが言った。

ある大学の教授は、「選挙には答えがあると思ってる学生が多い。」と。
少し眠気を携えての運転だったが、「ハタっ」と目が覚めた。

大人になるというのは怖いことだなって僕は思う。なんでもできるようになったような、そんな気がする。自分にできることは、みんなもできると無意識に思っている。

自分の右手と左手を用いて、目で見て、
耳で聞いて、話し、一歩一歩歩けばなんでも解決できる気がする。
正解にたどり着く気がする。
でもそんなのは、恐ろしい誤解なのではないか。

頭で考えたことが正しいことではなく、
正しそうなことであると、思うのだ。

正解を待ちきれない。
多様な言葉を覚え、人の気持ちが分かるようになって、多くの感情を手に入れ、その豊富な経験を用いて、なにか生き急いだ様に、他人に言葉を向ける。時に感情をぶつけ、自身の心さえ窮屈にしてみる。
自分の手元からまったくもって大事な正解を滑り落としてしまったかのような気さえする。

本当のところ、正解はどこにもなくって、
「正解なんじぁない?」なんて言って、漬け物樽に米ぬかと一緒に入れて、頭の隅のまたその奥の方で放ったらかしにするのが良いのだろうけど。

少し羨ましいなって今は思うのだ、
タピオカに何時間も並べる人が。

大事なことは、案外手元にないのではないか。
頭の奥だったり、心の隅っこにあるんじゃないか。隣の誰かが持ってるやも分からない。

それ!と蹴ったボールがゴールを外れ、校庭の隅の花壇に潜り込む。
「うぇ、ダンゴムシいるっ」なんてショックを受けながらしばしばサッカーボールを探した。案外そんなことが大事なんじゃないか。

転がり無くなったサッカーボールそのものより、探すのを諦めて校庭の中央で待つ友達と缶蹴りをし直す方が、良いのではないか。
きっと明日の朝担任に怒られるだろうなって、
夕焼けが罪悪感を飼い太らせても、僕は良いと思う。

たまの休みにタピオカに2時間かけて友達とゆっくり並ぶのも、良いのではないか。
必ずしも効率的な買い物をしなくても良いではないか。

この一連の機微が、正解と呼ばれるものなのではないか。
いや、正解とは、そもそも「もの」なのか。

「正シク解レル」と書いて正解であるなら、
ほぐす時間の経過それ自体が、正解と呼ばれる事象なのではないか。

川が絶えず流れるように、
正解というコトも、決まったカタチなどないのではないか。
まぁちょっと、大袈裟な気もするけれど。

僕は、子供の頃の自分と大人になった自分とを擦り合わせ、「どんぶらこどんぶらこ」と、
大きな桃が流れて来るのを待ってみたいお年頃らしいと、自覚した。

「この川が、あの例の大きな桃が流れることで有名な川かどうか」分からなくても、洗濯などして、生活を営み待ってみたいと思っているのだ。今は。







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