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人と人との関係性について

大学に入学して、たくさんの男性と接する機会ができて、当然たくさんの人と知り合った。それで、付き合う、付き合わないのお話になることももちろん何度か会って、つまり告白されたり好きになったりして、そういうことについてしっかり考えたのだった。

考えた末、「付き合うって何かわからない」というところに行きついてしまった。一緒にカフェに行きたいとか、一緒に週末美術館に行きたいとか、極論一緒にセックスしたいとかならわかるし、それについて返事をすることもできた。けど、付き合うってなんだ?というところで行き詰ってしまったのだった。

付き合うというと一人の人がなんだか特別になるということで、私はそれがなんだかとても不自然なことのように思えた。私にとって人と人との関係性は十人の相手がいれば十人とも違うもので、例えばこの人とは一緒にカフェに行くのが楽しい、この人といると落ち着くだとか、この人はこういった話ができて面白い人だとか、その中で一つを特別なものにするのは許されない気がしていた。

付き合うという概念で行き詰った私は、好きな「友達」におされて付き合ってものすごい違和感に苦しんだり、告白してくれた好きな人に「付き合うってなんだかわからない」と言ってしまい振られたりした。正確には相手が私に振られたと思ったようだったのだが、その当初その人がとても好きな人だったのはいうまでもなかったし、なんならその後1年以上その人のことを想って苦しんだ。私にとって「付き合うってなんだかわからない」と告白することはこれ以上ない愛の告白だったのだが、あいにくそれは伝わらないものだ。

「付き合う」はわからないのに、「結婚」「パートナーシップ」については自分の中で納得ができていた。それは「一緒に現実的なこと(家の用事や家族を作ったりだとか)をこなしていけるような相手」で、きわめて合理的な関係性だと思えた。二人でタッグを組むとやりやすいことがあるからだ。ほぼビジネスパートナーに近いかもしれない。もちろん一緒に時間を過ごすことになるので好きな相手でないといけないし、協力できるような相手でないといけない。性的にも惹かれなければならない。だが、結婚するわけでもないのに「付き合う」ことの意味が分からなかった。結婚できる相手かどうかは友達として長い時間接していてもわかってくる。じゃあなんのために「付き合う」相手は必要なんだ?というところで分からなくなってしまうのだ。

今、私にはパートナーがいて、パートナーと「付き合っている」わけだが、彼が告白してくれた時、私はやっぱり正直に「付き合う」がわからないという話をした。前回と違うのは、今回は前の教訓を生かして「これは振っているわけではない」というのを再三言いながら私の意見についてどう思うかということを聞いたのだった。

私には正直、出会ってすぐ、この人はパートナーになる人だというのがわかっていた。ロマンチストでもなんでもなく、ただひたすら合理的に考えて、なるほどこのひとだったか、と生まれて初めて妙な納得をしたのだった。それまで全く答えがわからず、答えなんてないのではないかと思っていたなぞなぞが解けたときのような感覚だった。ただ、私は付き合わなくてもそれくらいわかるのだから、結婚する時まで友達でいいのではないかとも考えていた。

彼はすごく考えた後、「僕はこれまで二人と付き合ってきて、2年くらいしないとそれぞれの彼女の問題が見えてこなかったから、ちゃんと付き合って一杯時間を過ごさないと結婚できるかどうかはわからない」といった。私はそれを聞いて、彼がわからないのなら彼の納得のために「付き合う」というプロセスを経てもいいと思った。それで「付き合う」という契約をのんだのだった。ただ、私の中では彼と「付き合い」始めた時点でパートナーになったのであり、結婚したのとそう変わりはないのだった。

今までこういった話に共感してもらったことはないし、ただ同じようなことを想って悩んでいる人も万に一人はいるかもしれないと思ってこれを書いた。いまだに彼氏、彼女、カップル、という言葉は私から見た彼との関係にはそぐわないと思っている。私にとって付き合う相手はパートナーなのだ。

私のような変わり者でも、パートナーはできるのだ。けれど、一目見た瞬間からこの人かもしれないと思えたのは、それまでずっと「付き合う」とは何か、私にとってのパートナーはどんな人でないといけないかというのを考え続けたからだったと思う。芸能人のりゅうちぇるが「自分に正直に生きていたらすきなひとと出会えた」というのに近いのかもしれない。自分の本当にほしいものを理解してぶれないでいると、それが現れたときにこれだったんだな、とわかりやすいのだと思う。


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