私立教育論争を考える上でのHenry Levinのフレームワーク

以前畠山が私立教育を巡るThe Economistの記事とその論争を紹介し、彼の持論を展開しました。私立学校の割合が世界的に増加傾向で、この増加に対して、The Economistは政府の施策として、①私立教育を禁止する、②私立教育を規制する、③官民連携(バウチャーや補助金)でパートナーシップを結ぶの3つの立場があると紹介していますが、最終的には私立教育を敵とみなすべきではないと私立教育との連携を推進する立場を取っています。

今回のブログでは増加する私立教育に対して政府はどうするべきかの結論を下す前に、どのような視座で私立教育論争を考える必要があるのか、そのフレームワークをご紹介し、さらにフレームワークの運用の難しさを指摘し、私立教育論争について意見を述べたいと思います。

1.Henry Levinのフレームワーク
そのフレームワークとはアメリカコロンビア大学ティーチャーズカレッジのHenry Levin教授の教育バウチャー制度評価のものです。教育バウチャーとは官民連携の一つの方法で、親が私立学校を選ぶことに対して政府が補助金を出して公立学校と同様に選択する自由を与えることです。バウチャーのデザインによってバウチャー対象の親の経済レベルの範囲や、学費負担の割合は異なってきますが、ねらいとしては親に公立、私立様々な学校を選択する権利を与えることで、1.学校間の競争を加速させ公私両方の学校の教育の質を改善させる、2.貧困層にも選択する機会を与えることで、選択の機会の平等性を保証することができると想定されています。

このフレームワークはもともと教育バウチャーを評価するために議論されていますが、教育バウチャーを越えて、私立教育の増加に対する教育政策を考える際にも有意義なフレームワークであると考えます。

①選択の自由
子どもを持つ親や家族が、価値観にあった学校や教育を選ぶ自由。
以前の畠山の記事で文化、言語、宗教の伝達のためにエスニックマイノリティや宗教的マイノリティーが自らの教育システム(私立教育)を求めたときにこれにも反対するのかと問いを提示していますが、自由に学校を選ぶ権利は原則として保証されるべきです。それが英語教育であっても試験中心の私立教育であっても同様です。一方で彼らの選択の権利を保証するために税金を使い学費の補填をするかどうかは議論が分かれるところです。The Economistの記事にもありましたが、私立学校が公立学校の進出できない地域に進出し、教育の受け皿を提供している面はある一方で、多くの私立学校が宗教関連であるという面もあります。そのような私立学校を選ぶ権利を補助金やバウチャーで支援するべきか、どの程度支援するべきなのでしょうか。

②費用対効果
限られたリソースの中でいかに大きな教育成果を上げられるか。教育バウチャー推進者は学校間の競争により、より大きな教育効果が挙げられると期待します。The Economistの記事ではガバナンスが弱い国では、私立学校の運営団体が政府の役人の袖の下を使うことで規制をかいくぐっている事例が紹介されています。私立教育のモニタリングやシステムの監督にコストがかかりますが、その莫大な出費に見合う教育効果をあげることができるか、教育政策を考える上では必要です。

③公平性
教育アクセス、リソース、成果の平等性。
お金があれば、高い学費を払って私立学校に子どもを通わせることができます。また、お金持ちや教育を受けた人は学校を選ぶ際により良い情報や移動手段を持っているため、これを持たない貧困層との間で学校選択時に格差が生じます。誰にも同じ教育機会・リソースを与えることが優先される社会であれば、極論、私立学校を廃止してどこでも同じ教育内容が受けられる公教育を普及することで公平性を保証できます。選択の機会の公平性を保証する場合は、教育バウチャーを発行し、学校選択に関する学校情報、移動手段を提供することで、理想的には誰でも選ぼうと思えばどの学校でも選べる状況を作れます。

④社会的一体性
教育を通じて、民主主義の概念や法の下の義務といった市民としての知識を得ること。教育の目的は個人の学歴の獲得や所得の向上といって個人的なものだけではなく、民主的な社会の達成や国民の形成といった社会的な側面もあります。社会に存在する異なる人々が同じ場所で勉強し、社会の共通言語を学ぶことで同じ社会に住む他者や社会の仕組みについて学ぶことができます。親の所得や教育レベル、民族や言語によって就学する学校が異なる場合、社会の分断に繋がってしまうのでしょうか。また社会が分断しないためには私立教育の教育内容にどのような規制をかける必要があるのか、議論が分かれるところです。

Henry Levinはこのフレームワークを全て網羅する教育政策は難しくトレードオフの関係にあると言っています。また教育バウチャーという一つの政策をとっても、ファイナンス、規制、支援制度といった政策のデザインの仕方によっても満たされる基準は異なってくると指摘しています。例えば、フリードマンの極端なバウチャー制度は、一定額のバウチャーは支援するものの、私立学校のバウチャー額以上の学費の徴収を認め、交通手段や情報の提供などの支援もないものです。これは個人の選択の自由を保証し、規制や支援制度もほとんどないことから、費用対効果が高い一方で公平性や社会的一体性は保証できていません。一方で別のバウチャー制度のデザインでは、貧困層を対象にバウチャー制度を設計し、入学者選抜の方法、共通の教育内容を定め、スクールバスや親向けの学校情報サイトを提供します。このバウチャー制度の場合、公平性や社会的一体性を保証することはできますが、教育内容に柔軟性がなく多様な教育内容を選択することができず、また制度の実践やモニタリング、支援制度の莫大な支出により費用対効果の高い政策とは言えないかもしれません。


2. フレームワーク運用の難しさ
教育成果を定義する困難さ
費用対効果を計測するためには投入したインプットに対するアウトカム(=教育成果)を計測し、比較する必要があります。一方で教育成果は学力だけではなく、社会的一体性のような社会的なアウトカムもあります。さらに畠山の記事で紹介されているようにエリート学校では非認知能力や教養といった非学力スキルに力を入れています。これらの教育成果は計測するのも難しいです。「何が良い教育か?」について多様な意見があり、多様な学校を選ぶ自由があるがゆえに、一様に何が教育成果か、定義し計測する困難があります。

社会的一体性という概念の運用の難しさ
犯罪率の低下や民主的な社会への貢献など教育には社会的な効果があるのは承知なのですが、その“社会”や“一体”の定義や社会的一体性の達成までの具体的なプロセスが描かれていません。
“社会”は“国”というレベルで議論されることが多いですが、地域、国、グローバルと多層で民族、宗教など多様な社会があると思います。この多層で多様な社会の中で“一体”になるとはどういうことなのか。同じ言語を話し、同じ歴史観や価値観を持つことなのか、異なる人々を受容し、違いを認めつつも同じ社会で信頼関係を持って生きていくことなのか。21世紀では後者の方が強く求められているような気がしますが、Henry Levinの議論で前提とされている社会は国レベルのもので、前者の目的の達成のための共通の教育経験が重視されているように思います。異なる人々が同じ場所で学べば社会的一体性は達成できるのか?学校が異なり“segregation(分断)”されている状況のエリート学校であっても社会の仕組みについて学び、他者への寛容を理解する教育内容であれば、いずれ彼らが社会に出た後社会的一体性に貢献できるリーダーになれるのか?これら多くの問いに答えるエビデンスが少ない(取りにくい)状況にあると思います。

3.私立教育論争について
公vs私という単純な比較になりがち
畠山も指摘している通り私立推進賛成派も私立推進懐疑派の多くがポジショントークで議論されることが多く、総論の議論に終始してしまい、私立学校における公平性を担保する方策のような各論の議論や議論が少ないように思います。私が英国で修士をやっていたときは途上国での貧困層向けの私立学校の議論が熱を帯びてなされていましたが、私の周囲には私立学校やバウチャー、世界銀行(!)と聞いただけで反対する教授がたくさんいました。
公と民は二項対立では捉えきれない部分があります。実際私立学校が公的な教育の拡充を担っている部分もあります。上のThe Economistの記事では、公教育が進出していない地域での私立学校による教育機会の提供している事例が紹介されていました。また日本でも私立学校・大学が教育の普及を補完していて、政府から私立学校へ補助金も拠出されています。さらに、アメリカのチャータースクールのように設置、資金は公、運営は民という場合もあります(チャータースクールについては→チャータースクールとは何か?)。日本でも民間出身の人が公立学校の校長に就任し、民的な方法で学校改革を進めています。公vs民という単純な図式だけではこういった現象を見誤ってしまいます。
最後に、公vs私の議論のときに幼児教育から高等教育まで一緒に議論されることが多いことも問題を単純化しすぎているように思います。各教育段階によっても目指す教育が異なり私立教育が貢献できる分野も異なるはずです。

4. 終わりに
私がこれまで生活してきたネパール、ケニアでは公立の小学校は法律では無償であっても実際は親が費用負担をしていました(ネパールの私立学校の問題についてはこちら)。1990年のEFAムーブメントのおかげで就学者数は劇的に増加しましたが、増加する児童に対する教員雇用の予算が追い付かないことから親が教員を雇用している学校がほとんどです。また一教室に80人もいる状況では質の高い学習が達成されているとは言えず、教員は放課後に私塾を開き、お金が払える子どもには追加的な教育機会を提供しています。もちろんお金がない家庭は無償の公立学校でさえ就学することはできないですし、公立学校内でさえ経済的豊かさによって塾に通える子と通えない子の格差があります。そのような状況がやばいと思える心とお金の余裕がある親は既に子どもを私立学校に通わせています。上のHenry Levinのフレームワークでいえば、公教育の制度自体が不公平であり、貧困層は学校に行かせたいという選択の自由すら奪われています。現状の公教育の予算は十分ではないのです。公教育ですらうまく監督しきれておらず汚職が多発しているケニアでは、官民連携の制度の監督すら難しく、汚職の危険もあり、追加の労力もかかるだけであれば、既存の公教育のガバナンスの改善や予算の増額をする方が費用対効果が高いのではないかと思うのですが、現実問題としては公教育の改善を一気に進める予算を計上することは難しいのでしょうか。たまたま聞いたケニアのラジオで、ケニアの政治家が最近のドナーはお金をどんどん減らしているから、次はプライベートセクターだと高らかに言っていましたが、既存のドナーがガバナンスの改善に力を入れる段階に入った援助依存の激しい途上国においては、潤沢なお金があるプライベートセクターが推進したい政策(官民連携など)に影響を受けやすい土壌であることを身をもって感じました(この点については畠山の記事が詳しい)。いつまでたってもお金を海外から引っ張ってきて、ポケットに入れようとする魂胆が素人目にでも想像できるケニアの政治家の話がラジオで流れる車の外で20円のフルーツ盛り合わせを必死に乗客に売ろうとする女性を横目に見ながら、それでもケニアは前に進んでいるのだなという実感を強く持ちました。

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