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奇想ノ七「桃の伝説〜卑弥呼と桃太郎をつなぐ紅い糸」

桃太郎という御伽話を知っていていますか? 犬、猿、雉をお供に連れて鬼ヶ島の鬼たちを成敗し、金銀財宝を持ってお爺さんやお婆さんの元に帰って行ったという勧善懲悪物語です。このシンプルに思える物語の主人公桃太郎には、古代史最大の謎と言われる邪馬台国の女王卑弥呼と不思議な繋りが見えるのです。キーワードは「桃の霊力」です。この不思議な桃の繫り=紅い糸を辿る奇想の旅に出てみたいと思いませんか。

伝説の始まりは弥生時代最大の墳丘墓「楯築遺跡」

 桃太郎といえばその伝説の地は岡山県と言われています。岡山の桃太郎伝説が全国的に広まったのは昭和37年の岡山国体の際に、国体PRイメージキャラとして桃太郎を使用したことからといいます。しかしそんなことよりはるか前、実は二千年前の弥生時代から岡山(昔の吉備国)は桃太郎と深く深く繋がっていたのです。
 現在の岡山県倉敷市矢部地区に「楯築遺跡」と呼ばれる不思議な風景の墳丘墓があります(墳丘墓とは小高い丘の様な古代人の墓のことをいいます。また古墳とは狭義に3世紀から7世紀に作られた墳丘墓のことを特に古墳と呼びます)。この墓はいくつかの点で大変に画期的な墳丘墓なのです。

盾築墳丘墓円丘頂部に配置された巨石

 作られた時代は出土物から弥生時代後期(1〜2世紀頃)とされ、大きさは円丘部は径50m、高さ5m、墳丘頂部には5個の巨石が円形に立ち並んでいます。また墳丘斜面には円礫帯(後の古墳の斜面を覆う葺石の前身)が巡っています。形は特徴的で双方中円形墳丘墓(中心の円丘部と両側に長方形の突出部を持つ)で、両突出部の長さは80mにも及びます。この特徴から後の古墳時代に出現する前方後円墳のプロトタイプともいわれています。形といい大きさといい、弥生時代最大級の特異な墳丘墓なのです。
 この墳丘墓からは鉄剣や銅矛、またガラス玉や管、首飾り、吉備式特殊器代(後の円筒埴輪の前身)が出土しています。そして何よりその時代には貴重で稀有な水銀朱が棺の底に30kgも分厚く敷かれていました。棺に遺骸はなく、ただ歯の欠片が2点出土しました。この歯の小ささや副葬品の首飾りやガラス玉から、この楯築墳丘墓に葬られたのは女性かもしれないともいわれています。その正体はいまだわかっていません。
 この楯築墳丘墓の南2kmほどのところに上東遺跡という弥時代の遺跡があります。上東遺跡からは住居跡の他に船の痕跡や波止場跡、そして9600個もの桃核(桃の種部分)が発見されています。弥生後期、この辺りは海に侵食され吉備の穴海と呼ばれる海に面した海岸線だったのです。上東遺跡は海へ漕ぎ出す湊だったのでしょう。楯築墳丘墓の主人はこの海に漕ぎ出す国の主人だったのです。

両翼80mある楯築墳丘墓の全景再現図

楯築に眠るのは後漢書に記された「倭王帥升」か


 この墓の被葬者には一つの仮説があります。弥生後期の一世紀頃に後漢の史書「後漢書東夷伝」に名前が残る倭の王がいます。「倭王帥升(別書には倭面土国王帥升)」です。後漢書だけでなく韓苑、北宋の通典などの史書にも「安帝永初元年(107年)、倭面土国王帥升が生口百六十人を献上し謁見を望む」と記されています。この記録は中国(及び外国)の史書に初めて日本人の名が登場する日本外交史上の事件なのです。この倭王帥升こそ楯築墳丘墓に眠る王ではないのかといわれているのです。
 論拠はいくつかあります。何より楯築墳丘墓と後漢書の時期の一致。帥升が支配したであろう上東遺跡の航海技術の痕跡。そして楯築の棺に敷かれた30kgもの水銀朱(丹、朱丹ともいう)です。当時朱は貴重品であり、国産朱の採掘痕跡(徳島・若杉山辰砂採掘遺跡)はあるものの流通する様な物ではありません。多くは中国産朱と考えられています。そして何より上東遺跡から出土した9600個もの桃核です。桃は本来中国原産の果実(当時は蟠桃といわれた)なのです。

楯築墳丘墓の木棺に敷かれた30kgもの水銀朱
上東遺跡から出土した桃核

 どうもこの楯築墳丘墓や上東遺跡には中華文明の影が色濃く見えます。後の前方後円墳を先取りするような墓形や埴輪の前身である特殊器台製作など、この時代吉備の先進性が著しく感じられます。 
 実は桃核の大量出土する遺跡は全国的には結構珍しいのです。しかも桃核発見数の8割以上が岡山に集中しています。岡山では上東遺跡9600個、津島遺跡2400個、百間川(今谷、沢田、米田)遺跡1240個、鹿田遺跡33個、雄町遺跡10個、南方遺跡多数(個数不明)などです。岡山だけで13300個以上が確認されています。これらの遺跡は楯築墳丘墓から20km以内にあります。遺跡からの大量出土例としては奈良纏向遺跡2760個、長崎伊木力遺跡2400個(縄文期の桃核もあり日本最古の桃核を含む)となっています。多くの遺跡では桃核の出土数が数個〜十数個にとどまっているのです。いかに岡山の桃核出土数が異常かがわかります。
 奈良纏向遺跡から2700個もの桃核が出土した時には「卑弥呼の使った鬼道の痕跡」といわれ話題になりました。もし本当にそうなら吉備の倭王帥升は卑弥呼の5倍の鬼道の力があったことになります。さてここからいよいよ私の鬼道、いえ奇想の発動です。この倭王帥升はどこから吉備にやってきた人物なのでしょうか。

九州に残る呉王夫差の逃避伝説


 九州の熊本菊池地方や阿蘇には不思議な伝説があります。
 中国の春秋戦国時代(秦が中華統一する前の時代)、前473年に長江下流域にあった呉国が隣国越によって滅亡します。この頃の中国には百ヵ国以上が存在し、それらは次第に淘汰され最後に秦が統一をしたのです。この呉国の最後の王が第七代国王夫差なのです。呉王夫差は越王勾践により自決したと伝わっています。(呉王夫差と越王勾践の戦いは、呉越同舟や臥薪嘗胆の古事成語を生みました)
 この自決した呉王夫差が遥か東シナ海を渡って、九州に逃げ延びたというのです。それが本当かどうかは不明ですが、九州各地にその痕跡があります。熊本の菊池市神来には夫差の後裔が住み着いたという伝承が地元の貴船神社にあります。その地の松野連系図には冒頭に夫差の名があるようです。またかつては鹿児島神社の相祭神に、夫差の先祖である呉の建国者太白が祀られていたともいいます(現在、鹿児島神社は太白の祭祀を否定しています)。

熊本県菊池市神来にある貴船神社。ここには夫差の後裔が住み着いたという伝説がある。
真偽は不明ながら、松野連系図にはその冒頭に夫差の名が見える

 また中国南宋の史書「通鑑前編」には日本からの使者が「我らは呉の太白の後裔なり」と名乗ったという記録があります。呉の太白とは呉国の創始者で、元々は古代周王朝武王の長男でしたが、三男の弟、姫歴(文王)に周を継がせるめに南の長江に下向し呉国を起こしたのです。つまり夫差はこの太白の子孫であり、日本の使者も太白の末裔を名乗ったのです。亡国の時に夫差本人でなくとも、夫差の王族が日本のどこかに落ち延びていたとしても不思議ではないかもしれない。
 私は、呉より日本(まず九州)に脱出した呉王夫差の王族やその子孫が、後に吉備の地で倭王帥升になったのではないのかと奇想しました。吉備国の時代に似合わぬ先進性や、水銀朱の保持、そして何より中華で信仰される桃の霊力を扱った様な10000個を超える桃核の遺物。つまり帥升は呉王の末裔であり、同時に古代周王朝の血脈の人物で、中華文明の継承者でははなかったのかと奇想したのです。

倭王帥升は倭国の平和を守る調停者だった


 もし帥升が呉王夫差や太白の末裔だったとしたなら、なぜ吉備の帥升がわざわざ後漢王朝に朝貢をしたのでしょうか。日本はまだ記録がない時代なので卑弥呼を記録する魏志倭人伝からそのあたりの情勢を奇想したいと思います。
 まず歴史的事実として帥升の記録が後漢書に登場する50年前の57年に、奴国の王が後漢の光武帝に朝貢し金印を拝受したという記録が後漢書にあります。そして博多湾の志賀島よりその金印が発見されました。「漢委奴国王」の金印です(発見当時の状況や金印の篆刻、取手の形状からこの金印には贋作説があります)。残念なことに奴国の王の名は記されていません。それで日本人最初の人名として史書に記される栄光を帥升に譲ることになったのです。

志賀島で発見された金印には贋作説が付き纏っている

 卑弥呼の魏への朝貢は239年(景初3年)と魏志には記録されています。使者の名は「難升米」、何故かこの名は前述の松野連系図の最後にある名と同じです。これは後漢書での倭王帥升の記録の約140年後です。そして魏志には卑弥呼が邪馬台国王に共立される70〜80年前から倭国は大いに乱れていたとしています(倭国大乱です)。
 ここでの奇想には邪馬台国がどこにあったのかはあまり重要ではありません。畿内でも九州でもよいのです。問題は時間です。魏書を信じるなら卑弥呼登場の最大80年前から倭国は乱れたのです。ならばそれまでの時代(170年頃まで)は倭国は平和だったことになります。帥升の後漢への朝貢が107年でそこには乱の記録がないので、107年から170年までは太平の時代だったのでしょう。それはなぜだったのでしょうか。 
 倭国大乱が起こった理由には様々な説があります。小氷期到来や火山噴火などの環境悪化で食料生産が減少し、争い(大乱)が起きたともいわれます。後の時代には同じ理由で戦国時代が起こっています。乱の起こる原因はそうかもしれませんが、それは太平を維持できた理由ではありません。私はこの時代(107〜170年)には倭王という各小国間の調停者が存在していたのだと奇想します。それが倭王帥升です。
 魏志倭人伝には倭には百を超えるクニ(まだ政治体制の整わない小集団)があったと記しています。それらの国々はそれぞれが勝手に活動していたわけではありません。交流も通商もあったのです。それらを上手く調和させていたのが倭王帥升ではなかったのかと奇想しました。経済活動や水稲生産が膨らむと土地争いなど隣国同士にも衝突が起こります。それを倭国内では帥升が調停していたのではないでしょうか。 帥升の権威が及ぶ範囲(私の奇想では吉備から北九州あたりまでの瀬戸内交流圏)では争いは未然に抑えることができていたのです。

吉野ヶ里遺跡は倭国大乱の時代の城柵や環濠のある弥生集落

 調停者として大国の後ろ盾や権威付けのために帥升は後漢に朝貢したのでしょう。では調停者の役目は同じく朝貢した奴国王では駄目だったのでしょうか。 
 駄目だったのです。奴国は他国と同列の国です。後ろ盾の力があっても他国を心底承服させる内心の納得(神聖さや尊さ)がありません。各国を心から納得させる調停者にはなれなかったのです。ですが帥升にはそれがあったのです。中華王朝王族の末裔という神聖さと尊厳が。倭には他者を納得や心腹させる共通の価値感、権威がまだ誕生していません(後の世に生まれる天皇や将軍など)。中華王朝の神聖さを持つ帥升がそれを担ったのではないでしょうか。
 ですが帥升もやがて命が尽きます。次の倭王も当然同様の調停者となろうとしたでしょうが帥升ほどの力がなかったか、あるいは状況(環境悪化も含め)がより困難になり、帥升ほどの調停効果を発揮できなかったのかったかもしれません。倭国は強力な統一国家というよりも、小国たちの広く緩やかな同盟国家群だったのではなかったのかと思います。ですから他国の納得のない調停は不調に終わります。問答無用の強制力は倭国(狭義には帥升の吉備国)にはなかったのでしょう。
 やがて倭王の調停を不満に思う国々の間で自力救済という名目の戦いが起こります。それが燎原の火のように倭国全体に広がっていったのです。そして倭国大乱に至ったのです。

調停者帥升を継承する女王卑弥呼


 倭国全体が大乱に疲弊しきった時に、卑弥呼が共立され邪馬台国女王として登場します。私は卑弥呼の「共立」という表現が状況をよく表していると感じました。力ではなく話し合いで決めという表現です。卑弥呼はきっと帥升の血族なのだと思います。そうでないと倭の諸国に帥升後継の「新しい調停者」として納得させる理由も、あるいは中華の王族という神聖さも尊さもありません。きっと帥升と卑弥呼には朱い血の糸が繋がっていたのです。共立という響きからは、邪馬台国内から選んだ女王というよりも、他の地から各国共通認識の権威としての女王を持ってきたというように私には読めました。きっと邪馬台国は大乱の最も激しい地域にあった国だからこそ、他から和平の権威を借りてこなければならなかったのだと奇想します。

卑弥呼が共立された理由は「調停者」としての期待から

 邪馬台国の女王に共立された卑弥呼は、決して超常の異能力で国々を統べたのではないと思います。使ったとしたら桃の霊力の祭祀の力だと思います。それは中華文明の象徴だったのです。帥升から受け継いだ水銀朱や桃の霊力を使った中華の文明力こそ、卑弥呼が調停者として使った唯一の力だったのではないでしょうか(ちなみに天文や気象を予測することは当時の中華文明には既に可能です。諸葛亮孔明の赤壁の戦いを思い出してください)。
 卑弥呼が魏に朝貢の使者を送ったのも、かつて倭王帥升が後漢に使者を送ったのと同じ理由です。その時の使者の名が「難升米」というのもどこか運命的です。松野連系図によると難升米もまた九州に残っていた呉王夫差の末裔です。300年前に分離したとはいえ帥升と同族です、帥升の血族である卑弥呼とも。卑弥呼は同族の難升米を使って故地の中華王朝に使者を送ったのです。
 卑弥呼の治世はある程度は成功しました(倭国大乱の終了)。ですが卑弥呼もまた没し、再び乱が起こります。そして倭国の人々はまた同じ手法を使いました。卑弥呼の血族である13歳の宗女台与を新たな邪馬台国女王に立てたのです。卑弥呼は未婚なので子はいません。同族ということは当然台与もまた帥升の血族だったのです。そして台与も卑弥呼や帥升と同じ手法を使いました。魏やその後裔の晋王朝に幾度も使者を送ったのです。
 台与がこの後どのような運命を辿ったかはわかりません。中国の史書にもプッツリと倭国の記録がなくなります。いわゆる「空白の4世紀」です。
 この頃、倭の中心地は北九州〜瀬戸内(倭王帥升の倭国範囲)から大和に移って行きました。神武東征があったかどうかは別にしても、3世紀には大和纏向に忽然と政治都市が出現します。纏向政庁や箸墓古墳の出現です。そしてこのヤマト王権の中には台与や吉備国の影が見えるのです。実質的に纏向をつくった十代崇神天皇の皇女の名「豊鋤入姫」や天孫邇邇芸の母の名「豊秋津姫」として。台(と)と豊(と)は同じと考えられます。そして何よりヤマト王権の祖神を祀る伊勢には外宮に「豊受大神」の名があります。内宮の「天照大神」を卑弥呼と考える説もあるので、ここに卑弥呼と台与が再び揃うことになりました。

台与や帥升の血族も集ったかも知れない纒向遺跡

 経緯はわかりませんが、きっとヤマト王権の中に台与(同時に吉備の帥升の血族も)は合流していったのだと奇想します。その論拠は纒向遺跡から出土する大量の吉備の土器や、箸墓古墳から出土する吉備式特殊器台です。この崇神時代のヤマト王権は崇神一族と吉備と出雲の連合政権と考えられています。そして何より、この纒向の地より2700個もの桃核が出土しているのです。帥升、卑弥呼、それに台与も使ったであろう「桃の霊力」をこの纒向でも使っていたのです。ならば纒向に台与や帥升の血族がいたと考えても不思議ではありません。

大和に生まれた桃太郎は帥升の末裔


 さて帥升から台与に至る血の絆の奇想はここで一休みです。ここからは桃太郎を奇想していきます。
 桃太郎のモデルになったという吉備津彦命は七代孝霊天皇の皇子です。元の名を彦五十狹芹命といい、母の名は倭国香媛で一説に淡路島出身といいます。この吉備津彦命には同母姉妹として皇女の倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)がいます。この倭迹迹日百襲姫命(以後百襲姫)は不思議な皇女で、大和の巫女として活動していたようです。神々の言葉を口寄せしたり、神事象を判断しました。また三輪山の神である大物主の妻ともなりました。
 まるで卑弥呼や台与の後継者のような役割です。纒向にある初の巨大前方後円墳「箸墓古墳」の被葬者はこの百襲姫であると日本書紀には記されています。ですがこの箸墓古墳は卑弥呼の墓という説もあるのです。そのせいか百襲姫=卑弥呼という説もあります。そう考えると纒向から出土した2700個の桃核を使った「桃の霊力」を祀ったのは卑弥呼や台与でなければ百襲姫だったのかもしれません。

百襲姫の墓とも卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳

 百襲姫は帥升の血族だったのでしょうか。その可能性は高いかもしれません。百襲姫の母の倭国香媛の出自は不明ですが、淡路島出身が本当ならば吉備国の人だったかもしれません。当時大和の勢力範囲は西は明石あたりまででした。十二代景行天皇が加古川に布陣して西の外敵と対峙したという記録があります。それより西は他国=吉備国の勢力範囲なのです。淡路島も吉備の勢力下だったのでしょう。つまり吉備の姫である倭国香媛の子供の百襲姫も吉備津彦命も吉備(=帥升)の血族なのです。だから百襲姫は卑弥呼や台与と同じように桃の霊力が使えたのでしょう。
 古代の皇族の名前には母方の出自を表す名前がよく入っています。倭国香媛も百襲姫にも頭に「倭」の文字が入っています。倭はヤマト王権確立後は大和や日本自体を意味しますが、それ以前に倭を名乗っていたのは倭王帥升の一族です。ならばその倭の字を頭に戴く国香媛も百襲姫も帥升の一族なのではないでしょうか。
 当然同母兄弟である吉備津彦命もまた帥升の血族だったということになります。吉備津彦命はヤマト王権と帥升一族とのハイブリッド皇子だったのです。
 私は長い間、四道将軍である吉備津彦命と吉備の鬼温羅との戦いを、単純に大和による吉備国侵略物語として理解していました。それを元にした桃太郎の話も侵略物語を正当化しただけのつまらぬ御伽話であると。ですがここまで奇想して、少しその考えが変わりました。吉備津彦命が帥升の血族ならば、吉備への侵攻は彼にとってのレコンキスタ(国土回復)の侵攻だったかもしれないと思えました。
 もしかしたら吉備を統べる鬼の温羅もまた帥升の血族で、吉備津彦命とは遠い同族だったかもしれません。しかし少なくとも吉備津彦命には先祖の地を回復するという大義があったのでしょう。だからこそ四道将軍として吉備に赴く必然性もあったのです。いつの時代でも「大義」のない戦さに勝利はありません。
 それは周辺国の協力や現地での様々な補充(兵站や兵士)を考えても成り立たないからです。今のロシアによるウクライナ侵攻を見てもそれは明らかです。大義のないロシアには周辺国や現地の協力もなく孤立無援の悲しい戦いを強いられています。大和から遠く離れた吉備津彦命が吉備で戦うには周辺国や現地の民の協力が必要です。協力を得るためにも戦う大義と吉備の国土回復の象徴は不可欠だったのです。それは大和の他の皇子にはない吉備津彦命の血だけが持つ大義と象徴でした。

帥升や卑弥呼の霊力の源泉であり、吉備津彦命を吉備に招いた蟠桃

 私は彦五十狹芹命が吉備津彦命を名乗ったのは単に「吉備を征服した皇子」だから戦利品として征服地の名を獲得したのだと思っていました。しかし本当はそうではなく、「吉備の倭王帥升の末裔」を公称するために吉備の名を戴いたのかもしれないと思うようになりました。
 吉備津彦命による鬼の温羅退治は(そこから生まれた桃太郎の鬼退治物語も)、実は壮大な自分のルーツ探し、そして血の故郷への帰還物語ではなかったのかと思え始めたのです。これは歴史に対する奇想というより私自身の願いなのかもしれませんが。
 桃太郎が何故桃から生まれのか、そして何故自分やおじいさんおばあさんには実害のない鬼ヶ島を攻めていったのか。それは父祖帥升から受け継ぐ桃の霊力の象徴であり、父祖の地倭国(吉備国)を取り戻すという自分に課せられた宿命を果たすための戦いだったのかもしれません。
 吉備に攻め込む吉備津彦命の腰には吉備団子ではなく、きっと古代中国の蟠桃が携えられていたのだと思います。そしてその桃の霊力を信じる猿(楽々森彦)、犬(犬飼健)、雉子(留玉臣)らの人々が吉備の王帥升の子孫を守ったのです。
 結局この奇想は、倭王帥升→邪馬台国女王卑弥呼・台与→百襲姫・四道将軍吉備津彦命(桃太郎)を繋ぐ「紅い血の絆」をたどる故郷回帰の旅でした。そしてここまで奇想を続けた末に、私は最大の奇想を獲得しました。それは「楯築に眠る倭王帥升はきっと女性だったに違いない」という。桃の霊力とは女性によってのみ繋がれる力なのだと確信したのです。 
 私は今年2024年の正月初詣の先を、帥升たちと同じく故郷岡山にある吉備津神社にしました。この奇想をした今年の初詣は少し感慨深く、例年と違うように感じたのでした。

レコンキスタを果たした吉備津彦命を祀る吉備津神社本殿

《追記》
 古代の桃の伝説は終わりましたが、現代の桃の伝説について少し語ります。
 桃自体は各時代に中国から様々な種類の桃が渡来しているのですが、現代我々が食べている桃の物語はやっぱり岡山から始まるのです。
 明治8年(1875年)に中国から上海水蜜、天津水蜜などが日本に導入され、岡山や各地でこれらの品種が栽培され始めました。各地で新品種や栽培法が競われるようになります。そうした中で明治28年(1895年)岡山の果樹栽培家・小山益太が桃の新品種「金桃」を生み出しました。小山は後進の育成にも熱心で、その門下生である大久保重五郎が明治34年(1901年)に上海水蜜系とされる新品種「白桃」を創生することに成功するのです。強い甘みとねっとりとした食感から最高の水蜜桃と注目され、全国にその栽培が広がっていきました。そして今の日本で流通する様々な品種の桃のほとんどが「岡山の白桃」をルーツとするのです。
 帥升の時代から二千年後の岡山(吉備国)の地で、またも新たな桃の伝説が始まったのです。現在、生産量こそ1位山梨、2位福島に譲っていますが、今なお桃の伝説の出発地であることには変わりありません。

桃の伝説はまだまだ未来に向かって続いている


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