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奇想ノ伍「長江から東シナ海を渡った鯉のぼり」

GWがもうすぐやってきます。そして5月5日には端午の節句も。チマキや柏餅に鯉のぼりが思い浮かびますが、これらはどこからやってきたのでしょうか。国内での習俗としての発展もありますが、そもそもの発祥は何なんでしょうか? 今回はそれを奇想する旅に出てみたいと思います。

奈良時代の災厄封じから、江戸時代武士のお祭りへ

 5月5日の端午の節句は、男の子のお祭りだといわれています。ですからこの日は鎧兜を飾り、あるいは鍾馗様を祭ります。そして青い空には高々と鯉のぼりが泳ぐ姿を想像しませんか。家では柏餅やチマキを作り、あるいは食べて無病息災を祈ります。
 ここまで書いただけでも、さまざまなイメージ、文物がこの端午の節句には絡んでいます。これらは全てどんな意味があるのでしょうか。

 端午の節句の歴史を探ってみると、日本では奈良時代にまで遡れるようです。
 端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったといわれています。
 当時の日本では季節の変わり目(春から夏)である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲(しょうぶ)を浸した酒を飲んだりという風習です。
 厄よけの菖蒲をかざり、朝廷では皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配りました。また病気や災いをもたらす悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式もおこなわれたようです。
 菖蒲は薬草で邪気を避け、悪神を払うという昔からの信仰がありました。節句には蓬とともに軒に刺し、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴します。

 武者人形や鯉のぼりを飾って男の子の前途を祝うようになったのは、武士の祭りとして行われるようになった江戸時代からです。「菖蒲」と「尚武」の音が同じなので、まず武士に好まれたようです。
 この武士のお祭りが、やがて経済力を持った町人や商人層にも広がっていきました。それが日本中に広がり、やがて端午の節句として全国で行われる行事に成長したのでしょう。

鯉のぼりは龍へ成長するための第一段階?

 さて端午の節句の語源や菖蒲が絡んだ意味は理解できたと思いますが、ここに「鯉のぼり」や「チマキ」がどう入り込んできたのでしょうか。鍵は中国の「龍」信仰にあるようです。龍は降雨、台風、洪水など水を制御し、古くから王権を象徴する神獣でした。
「龍」という神獣(概念)は古代中国の発明といってよいでしょう。「蛇」に対する神格化はインド文明(ナーガ神)や地中海文明(妖怪ゴーゴン)、マヤ文明(ケツアルクワトル神)、日本(大和三輪神)など世界各地で見られますが、龍は蛇ではありません。
 この龍になる最も近い存在が「鯉」なのです。
 三秦記によると黄河の急流に龍門というところがあります。水の流れが険しく黄河の魚類がこの龍門の下に数千集まり、泳ぎ切ることを試みたのですが通る事ができませんでした。ここを登れるのは龍だけで、もし登る事ができれば龍に化身できるというのです。その数千の魚類の中で鯉だけが龍門を登ることができ、龍に化身したのです。今でも立身出世する試験や選考を「登龍門」と呼ばれるのはこの故事からきています。
 つまり「鯉のぼり」は龍に化身する瞬間を表現したものなのです。江戸時代の武士は我が子が龍に化身するように祈って鯉のぼりを立てたのでしょう。
※龍門:山西省と陜西省の間にある場所のことで、古代治水に功績をあげて夏王朝を開いた禹が切り開いたことから「禹門」とも呼ばれる。(写真上:黄河龍門地域、写真下:龍門近くの壺口瀑布) 

「龍」が神聖化したのは秦王朝、漢王朝の中華統一戦略

 龍という存在は中国では大変古く、五千年以上前の遺跡からも龍の痕跡が見られます。新石器時代の遺物からは碧玉龍(写真上)や龍型玉飾(写真下)が出土しています。

 確認されている最古の中華王朝である殷の青銅器(写真上)には龍があしらわれており、また殷で使われた甲骨文字には「龍」(写真下)の文字が確認できます。

 こうして太古から存在した龍ですが、一躍中国の代表神獣になったのはどうしてでしょうか。神獣は他にも存在します。実際に殷王朝では「鳥(玄鳥)」がシンボルでしたし、周王朝では「虎」がシンボルです。
 ですが秦王朝が中華を統一すると、それ以降は突如として今我々が知る「龍」が中華全土に出現します。なぜなのでしょうか? それは「トーテム(氏族霊)」の集合体としてのトーテムポールが、中国では「龍」という神獣の形になったからではないのでしょうか。

 まずトーテム(氏族霊)の概念ですが、特定の集団や人物、「部族」や「血縁(血統)」に、宗教的に結び付けられた野生の動物や植物などの象徴のことをいいます。文化人類学者のレヴィ=ストロース氏はトーテムを、一定の理論性を持った為政者による部族団結の装置と考えました。
 難しく考えなくても、プロ野球のマスコットと同じです。我が愛する阪神タイガースなら「虎」、広島カープなら「鯉」、西武ライオンズなら「獅子」というように、その動物の元にファンたちは一体化(団結)します。それがトーテムです。
 我々がよく知る北米インデアンのトーテムポールは、婚姻や合体により、部族のトーテムが増えると、それを上に上にと継ぎ足していったものです。ですからトーテムポールを見ると、その部族の歴史がわかります。

 さて秦王朝が中華を統一する前は春秋戦国時代と呼ばれ、最初は百カ国近くが存在し、最後の段階でも7カ国(戦国の七雄)がありました。この頃の国家は基本が氏族国家ですから、それぞれの国家にはトーテムがありました。
 それを秦は結果的に一つにまとめます。ではそれまであった各国(各氏族)のトーテムはどうなったのでしょうか。中華を統一したといっても、人が入れ替わったわけではありません。人が残る限りトーテムも残ります。
 秦は中華統一の新しいトーテム(国家シンボル)として「龍」を作ったのではないかと奇想します。それまでのシンプルな「龍」ではなく、複雑にトーテムを合体(キメラ)させた「龍」です。
 今我々が知る龍の姿は、後漢に作られた王符の定義「九似説」に依っています。
 九似とは、龍の九つの部位がそれぞれ他の動物に似ていることをいいます。
角は鹿、耳は牛、頭は駝(駱駝)、目は兎、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、腹は蜃(みずち)、項(うなじ)は蛇に似ているということをいいます。
 現在も、龍を描く時にはこの九似を基本として書かれています。なぜ秦やその後の漢王朝はこのような複雑な定義を龍に対してしたのでしょうか。それは秦や漢が多くの国々を征服し、そのトーテムを吸収していったからです。九似の九匹の動物は、秦や漢が吸収(征服)した国や氏族のトーテムの一部なのだと奇想できます。

 秦王朝は短期間の二代で滅びますが、次の漢王朝は秦が作ったキメラトーテムを流用しました。伝説がそれを物語ります。
 漢を興した劉邦は自らを「赤帝(赤龍)」とし、統一の過程で「白帝(白龍)の子の大蛇」=秦のトーテムを退治する逸話が史記にあります。つまり白を赤に変えただけで、龍(キメラトーテム)を奪ったのです。
 以降龍は皇帝権力と統一王朝の象徴となり、中国各地で祀られることになりました。中国は自国を「龍国」と称します。まさに統一中国の象徴になったのです。

長江文明の流入と稲作の伝播

 さて「龍」の持つ意味と、「鯉のぼり」にかけた人々の願いが少しお解りいただけたでしょうか。ではこの龍と鯉のぼりが、いつ日本にやってきたのでしょうか。普通に考えると、中国との長い交流の中で、徐々にこの龍文化が日本に浸透したと思えます。
 しかしそれではあまりに漠然としています。私は春秋戦国時代から秦王朝成立の直後に、東シナ海を渡って龍と鯉のぼりが日本にやってきたのではないのかと奇想しています。
 この時代は日本では弥生時代で、ちょうど稲作が伝来した時期です。日本の稲作は、かつては朝鮮半島経由で伝わったとされていましたが、近来の研究で水稲は中国の長江流域から直接伝播したと考えられています。
 それを証明する事実がいくつかあります。
 1)水稲(水田での稲作)の北限はほぼ黄河流域南部で、また朝鮮半島でも同緯度の平壌あたりです。黄河流域や朝鮮半島北部に陸稲(畑での稲作)遺跡はありますが、古い水田遺跡はありません。水稲ができない寒い地域を通って、日本に伝わったとは考えにくいのです。
 2)水稲の起源は遺跡や稲の遺伝子研究から、12000年前に長江中流から下流域とわかっています。そこで栽培されていたジャポニカ米の稲の遺伝子と、日本で栽培されるジャポニカ米の遺伝子はほぼ同じです。朝鮮半島南部で発見されていない遺伝子を持つ長江流域の稲も日本では発見されています。
 3)日本で発見されている最古の水田遺跡「菜畑遺跡」(佐賀県唐津市)と韓国最古の水田遺跡オクキョン遺跡は紀元前10〜11世紀頃で同時期です。長江流域から同時期に東シナ海を渡って伝播したと考えられます。

 つまり長江流域からダイレクトに、九州と朝鮮半島南部に水稲耕作と長江文化が伝播したのです。東シナ海を渡る海の道がきっとあったのでしょう。

春秋戦国時代の動乱と国家喪失難民流入

 紀元前10世紀頃に始まった水稲耕作の伝播ですが、当然大小の波があったでしょう。最も大きな伝播の波は、春秋戦国時代末期の国家存亡時期と、統一秦王朝の成立の頃だと思います。
 この頃の長江流域の国を見ると、先ず長江下流域に「呉」(三国志時代の呉(孫呉)と区別するために春秋期の呉を句呉(こうご)といいます)があり、その南部に「越」がありました。そして長江中流域には「楚」があります。この三国が順番に滅んでいくのです。

 まず紀元前473年に呉(句呉)が南方の越に滅されます。この時、呉の王「夫差(又はその一族)」が日本の九州に逃れて来たいう「呉王伝説」が熊本の菊池地方にあります。また霧島の鹿児島神社の相祭神には呉の太祖「太伯」が祀られています。真実かどうかは別に、呉から人々が渡って来た記憶の残滓なのでしょう。
 次に紀元前306年に越が楚に滅ぼされます。越の滅亡により祖国を失った人々が、九州北部から日本海沿いに福井あたりまで流入したという伝承があります。福井あたりは古名を「越(高志)」といいました。
 そして最後に紀元前223年、秦により楚が滅ぼされました。
 漫画「キングダム」でお馴染みかもしれませんが、この時秦軍は李信20万、王翦60万で攻め、対して楚軍は昌平君30万で応戦します。結果楚軍は全滅、昌平君は討死します。楚は滅亡し、また多くの国家喪失難民が生まれました。海の道を通って日本列島に難民が押し寄せることになったのです。

屈原の故事と海を渡る鯉のぼり

 最後に滅んだ楚に屈原という政治家で詩人がいました。屈原は秦の謀略を見抜き、踊らされる楚の懐王を必死で諫めましたが受け入れられませんでした。しかも宮廷内の政治闘争から失脚し、国を追われます。この時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上不朽の名作といわれ、屈原から詩と作者が記録されるようになりました。
 楚の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。楚の国民は小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし、さらにちまきを投げて、屈原の死体を魚が食べないようにしたといいます。
 この屈原の命日が5月5日で、楚の記念日にもなります。小舟で鼓を打ちながら航行した姿から、舳に龍の首飾りをつけた龍船が競争する行事が生まれたそうです。これがドラゴンボートレース(龍舟比賽)の始 まりといわれます。水面を走る龍船には、鯉の幟(鯉のぼり)をはためかせていたかもしれません。龍と鯉はイメージのセットです。
 またこの川に投げ入れる鎮魂のちまきは「肉粽=ローツ ォン」の起源で、5月5日にちまきを食べる習慣になったのです。

「龍」に「ちまき」に「5月5日」、いよいよ端午の節句のアイテムが出揃ってきました。こうした文物や記憶が、まず亡国の楚からの流入難民により日本にもたらされたのではないでしょうか。勿論、後世の交流により知識としても知るでしょうが、まず生々しい記憶としてもたらされたのだと奇想します。
 三国志時代、端午の節句は魏により旧暦5月5日に定められ、やがて日本にも伝わったといいます。三国志時代の魏というのは、魏志倭人伝で邪馬台国の卑弥呼を記しています。もしかしたら邪馬台国にもこの風習が伝えられ、女王卑弥呼の頭上に鯉のぼりが泳いでいたかもしれません。

本当に海を渡っていた鯉と倭人

 さて、端午の節句と鯉のぼりが、長江から東シナ海を渡ったというお話はここで終わりです。ただ追加したいことがあります。実は魚の鯉と倭人も海を渡っていたのです。
 今の日本の鯉は大昔に中国から移入された(史前帰化動物)と考えられています。縄文時代の貝塚から鯉の化石が発見されていたり、関東平野や琵琶湖に野生の鯉(野鯉)が分布しているのですが、そこへ中国からの移入で外来種の鯉が広まったと考えられています。野鯉と移入の鯉は遺伝子的に別種といえるほど異なるそうです。
 鯉は生命力が強く、また滋養に富んでいて昔は妊婦などが食していたといいます。きっと海を渡る長い旅を達成するための栄養源として、遥か長江の鯉が日本にまで運ばれて来たのでしょう。

 またこの呉、越、楚が栄えた長江流域には倭人、倭族と呼ばれる人々がいたと記録されています。民俗学者の鳥越憲三郎氏は『論衡』から『旧唐書』にいたる史書における倭人の記述を読解し、長江上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、複数の倭人倭族の王国があったと指摘しています。倭族は水稲の栽培に成功し、その倭族の一部が日本列島に移住し、弥生人になったのではないかとしています。
 他の倭族と分岐した日本の弥生人ですが、中国に残る倭族の特徴である高床式建物、貫頭衣、注連縄、入墨などの風俗は共通しているということです。

 本当に倭人、倭族が稲と生きた鯉を携えて、日本にまでやって来たのかもしれません。それで中国王朝は日本人を倭人と呼んだのでしょう。
 ただ倭人と同様に、呉、越、楚の人々も稲と生きた鯉と龍文化を携えて日本にまで旅をしたのだと思います。日本はきっと動乱の続く大陸と違い、穏やかで生活しやすい国だと信じて。
 こうして大陸から長江流域の人々が押し寄せたていたのですが、日本ではほとんど縄文人と長江の人々の争いの跡がありません。原弥生人が平地で水稲をしていた時代、縄文人たちは高地性集落で生活し、争うことなく共存していたようです。そして時間をかけて徐々に混血し、原日本人を形成していったのでしょう。そこにはいつも、青空に泳いでいる鯉のぼりがあったのかもしれません。

 鯉のぼりと端午の節句を奇想していたら、ついには日本人の源流にまでたどり着いてしまったようです。長い長い奇想の旅は、とりえずここで休むとしましょう。
 さて、家の直ぐそばにある神戸南京町でちまきを買って来ることにします。きっと今日のちまきは長江の味がするのではないかと思います。



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