サバイバーから見た「2分の1成人式」

考え直してほしい「2分の1成人式」——家族の多様化、被虐待児のケアに逆行する学校行事が大流行

学校リスク研究所の内田良先生は、これまで日本の学校教育の中で美化されてきた「独自の」文化に対して色々な提言をなさってきた。見えにくい(見ようとしない)日本の根性論・精神論に対して科学という万人にわかりやすい物差しで、ちょっと違うんじゃないか、と言う。もっと切迫して命の危険があるとはっきり言う。そして現場を変えようと試みる。人の命に対してすごく真摯な記事を書き、継続して考え、そして行動に移している。それだけで、もうすごい覚悟だ。

そして今年の成人の日に合わせて「2分の1成人式」についての記事を書かれた。けれど、おそらく結構な人に「そこまで神経質になるとかどんだけ」、「とりあえず噛みつきゃいいと思ってるww」とか言われてるのかもしれない、と推測する。

記事に賛同する人たちでさえも「感謝は強制されてするものじゃない」、あるいは「わざわざ学校行事でやらなくてもいいのでは?」という感覚なんだろう。

この記事が読者の関心を惹いたのは、2分の1成人式で母親に感謝の手紙を書いて、翌年その母親の暴行によって死亡してしまった女児の手紙の内容が提示されている点にあるだろう。そのケースを取り上げ、内田先生は記事にこう綴った

—女児がどういう心境で「ありがとう」と書いたのか、それは誰にもわからない。—

わからない、だから問い続ける。研究者としての揺るがない信念があるように思える。




私は当該女児ではない。けれど、少しだけ答えに近い事を語れるかもしれない。なぜなら、私はサバイバー(生き抜いた被虐待児)だからだ。



「どうして贈り物をする相手に『ありがとう』って書くの?と不思議でたまらなかった」

私が幼稚園に通っていた頃「母の日にお母さんの絵を描き、プレゼントする」という行事が行われた。上に書いた文章は、それから25年後、ようやく現在のパートナーに話した言葉であり、当時の私の実感である。

恐らく一般的な家庭=homeで育ってきた人にとっては、「何言ってるんだ、こいつ」と思われるかもしれない。しかしhomeではない環境下で育ってきた私にとっては、かなり切実で、しかし他人(保育士や友だち)に言えなかった疑問である。


説明をする。

私はhomeで育っていない。両親(父と母)と兄妹はいたが、そこは決してhome=「安心してくつろぐ場所」ではなかった。常に緊張していなければならない場所だった。


怖いのは、家族みんなで食べるご飯

食卓で、醤油やみそ汁をこぼした事のない人はいないだろう。こぼしてしまったら、本人やそこにいる誰か(年長者)が台拭きやキッチンペーパーで拭く。そして「人間の暮らしにこういう事はつきものさ」と笑うらしい。「らしい」というのは、私が生まれ育った場所では、そうではなかったからだ。

私はなぜかこぼす事の多い子どもであった。そして、醤油やみそ汁、スープ類をこぼすと母に激しく叱責された。醤油だと「洗濯しなければならない、落ちなかったらどうする」と激昂され、みそ汁やスープなど母いわく「丹精込めて」作ったものだと「私が愛情込めて作ったものをどうしてこぼすの!」と責められた。兄妹は黙々と食事を続ける。決して助けない。絶対権力者である母親からの激しい叱責に、自分も巻き込まれるのは辛いからだ。

また、完璧主義者の父は食事の際の作法に厳しかった。小学校低学年の頃、私が肘をついて食事をしていたら、その肘を両方払われた。当然食器は落ち、中身は散乱する。母は上述のごとく怒り、父も「行儀が悪い」と言うのみであった。ちなみに、大人の力で肘を払われるのは、子どもにとってかなり痛い。肘の痛みと、責められる痛み、両方に耐えて私は食事を続けていたようだ。(こぼした後の事はよく覚えていない。なぜなら「こぼさない事」が大前提なので、こぼしてしまえばそれは「失敗」として記憶されるのみだからだ。)

食卓は常にスリリングで、何かをこぼしたらお終い、両親からの精神的・肉体的な暴力が飛び交う場所であった。失敗してはいけないという緊張感は凄まじく、私の食事作法はよくなった。その結果だけを見て、両親の躾は正しい躾なのかもしれないと成人してからも思っていた。

家でくつろぐ…?

そんな私が家庭はくつろぐための場所だということを知ったのは、結婚後パートナーの家庭に帰省してからである。

嫁として夫の実家に滞在している事に、私が緊張していると感じたのだろうか、パートナーから、そしてお義父さんからも「もっとくつろいで」と言われ、心底驚いた。

「くつろぐ?家族(自分以外の誰か)がいる場所でくつろいでいいの?」

原家族(自分が生まれた家族)で、くつろげるのは、1人で入るお風呂とトイレ、それか誰もいない場所(空間)だけであった事に、はじめて気づく。そして初めて、家庭とはどういうものなのかをうっすらと理解できるようになる。薄暮の時間の家の灯りが美しく、愛おしく見えるようになった。


親子関係の逆転

生まれたての赤ん坊は泣く。お腹が空いているから、おむつが濡れているから、暗闇が怖いから。親はミルクを与え、おむつを換え、背中をさすり、その欲求を満たす。血縁のある親でなくとも、とにかく乳児期は誰かに世話をしてもらえないと、赤ん坊は生きていけない。親は子どもの欲求を満たすために奔走する。子どもが成長するにつれて、全てを満たすのではなく、ある程度欲望を抑制してあげる事もまた、親の役割である。(育てた事はないけれど、たぶんそう。)

しかし、この親子関係が歪になり、逆転しているのが私が生まれ育った場所である。私は親の欲求(こぼさない、食事の作法のよい子ども)に応えるために、必死で努力する。家族の誰か(とりわけ両親)といる時は、とにかく相手の欲求を満たすためだけに動くのである。このようにして、家はくつろげる場所ではなく、緊張の空間と化す。


決して言えない自分の家の事

このように「親の欲求を満たすための子ども」であった私には、母の日の意味がわからなかった。普段欲求を満たしてあげている相手に、更に感謝しましょうと言われる。不思議でたまらない。「ありがとう」という言葉は、プレゼントをもらったり、優しくしてもらったりした時に発する言葉だとようやく理解し出した幼稚園児に、贈り物をしつつ感謝の言葉を伝える「母の日」という難解なイベントがやってきたのだ。

お母さんの絵と「ありがとう」という言葉がどうしてもセットにならない。当時の私はその事を誰にも言えなかった。皆当然のように「ありがとう」と書いているし、何よりそんな事を言って取り返しのつかない事態になったら、どうしようという恐怖に似た何かがつきまとっていた。


振り返って、2分の1成人式

とういわけで、私がもし小学4年生の時に、2分の1成人式をしていたらどう思っただろうか。記事にある「代表的な中身」を見ていこう。

「将来の夢・合唱の発表」、「2分の1成人証書」、OK、大丈夫。夢はピアノを習ってたからピアノの先生、合唱は皆で練習するから先生にお任せ、証書ももらうだけだ。どうせ夢を書いた作文も証書も、しばらくしたら燃えるごみになる。

「親に感謝の手紙を書く」…幼稚園児と小学4年生だと感じ方や思考力がだいぶ違うけれど、たぶん本質的な意味が理解できないまま、当たり障りのない事を書くだろう。本当のところ、今でも「産んでくれてありがとう」という実感は湧かない。ただ、周囲で子どもを育ててる友人とかを見ると、その尽くし方はもう神レベル!と感じる事がある。そういうのが親の有難味ってものなんだろうと推測すると、なるほど日頃尽くしている相手(=子ども)に感謝されたら嬉しいかもしれない。きっとそういう親は手紙も大切に取っておいてくれる。

「自分の生い立ちを振り返る(写真、名前の由来)」…これは辛い。果てしなく辛い。今まで親の欲求に応え続けた人生を振り返らなくてはならない。しかも適度に美談っぽくしろという圧力がかかる。どうしようもない現実を、うまくコピペして、親が感動できるものにしなければならない。想像しただけで、もはや罰ゲーム。加えて同級生の素敵な家族のエピソードを聞かされ続ける事で、ダメージは増す。自分だけが変なんだ、異常なんだと思いかねない。そんな事を、小学生の自分にさせたくない。


親を満足させるために努める事は日常、という現実。

9割が満足! 親子で感涙する「2分の1成人式」とは!?

このアンケートで注目すべきは、満足している主体が「親」であるという事だ。正しく「親の欲求を満たすために子どもが頑張る」のだが、被虐待児にとっては、日常生活が常にそうであるから、わざわざイベントとしてやる意味がわからない。(健全な家庭であれば、尽くす相手が一瞬だけ逆転するので、確かにイベントだろう。)

学校行事は親が満足する行事ではない。子どもたちが目標に向かって頑張るものであったり、何か自分にとって大切な課題を見つけて学ぶものであったりする。教師や親は必要に応じて準備や手助けや軌道修正をするけれど、主体はあくまで「子ども」なのだ。

私は、今子どもを育てている人、教育・福祉に携わる人、子どもに関わる人たちに尋ねてみたい。


喜んでいるのは、子どもですか、それともあなた(大人)ですか?

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