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後悔

この投稿はもしかしたら後日非公開にするかもしれませんし、未だにうまく言語化できていません。そして、今も言葉にするかを迷っています。
でも、それでもあの時感じたこと・思ったことを忘れないうちに言葉にしておきたいと思ったので書きます。

これから書く内容は人の生死について関わることです。もし苦手な方がいたらこれより下は読むことはお勧めしません。よろしくお願いします。

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今年1月、祖母が亡くなりました。
朝方、心筋梗塞で、病院で息をひきとりました。
昨年の春頃、心臓病で緊急入院と心臓の手術をして、それから何回か入院退院を繰り返し、その中で癌が見つかりました。癌の進行は深くもう手遅れで延命措置をしていましたが、昨年末には貧血で緊急入院したのち危篤状態になっていたので覚悟はしていました。
89歳という高齢だったこと、認知症も進んでいたことや癌と心臓病の進み具合を考えるとよく頑張って生きてくれていたなぁと思っています。

コロナ禍で対面することができないままで、なかなか会うことができませんでした。両親が病院に行ったときに撮ってくる写真でしか姿を見ることが出来ませんでした。
お見送りの時、最後祖母に触れることが出来て、そしてやっと祖母の死を実感できた気がしました。


祖母の葬式で私は孫を代表し弔辞を読みました。祖母への感謝と祖母との思い出を綴りました。しかし、その時書けなかったこと、もっと伝えたかったことを今ここで書こうと思います。

正直、私は祖母のことが苦手でした。過保護で心配性で偏屈で見栄っ張りで、色んなものが偏っていました。歳を重ねるにつれ今までおかしいと感じていた理由がわかるようになり、それと共に一緒にいると息苦しく感じるようになりました。顔を合わせるたびに喧嘩するようになってしまい、それが嫌で段々と祖母を避けるようになってしまっていました。
でも、それでも、今までを振り返れば祖母にはとてもお世話になり、私のことをとても可愛がってくれていました。

両親が共働きだったので、私は妹と一緒に幼少期から中学生までの約10年間、祖父母の家に預けられ、幼稚園や学校の帰宅時から夕飯まで2人にお世話になっていました。
今思い返せば幼さ故にか、両親が家にいない寂しさを紛らわすためにしたのか何故なのかは分からないけれど、幼少期の私は祖父母宅の家中の壁や物に悪戯をして壊し、わがままを言い、やりたい放題でした。それでも祖母は困ったように笑い、許してくれました。
風邪をひき、高熱でうなされ、辛く泣いていた時は背中をさすってくれました。毎回梅干し入りのお粥とスーパーカップのバニラアイスを用意してくれました。私はお粥が得意ではなかったので、要らないと跳ね除けてしまい、それでまた祖母を困らせていました。
心配性で小学生の高学年まで下校途中の帰り道祖母は迎えに来ていました。
とても恥ずかしくて仕方がなくて、毎日「来なくていい!」と頼み最終的には泣きながらお願いをしてやめてもらいました。やめてもらって安心した一方、その時の祖母の悲しそうな顔がずっと忘れられないでいます。

春には毎年庭に植えた花の名前を一つ一つ教えてくれたこと、夏に庭の畑の野菜を一緒に収穫したこと、秋は干し柿を一緒に吊るしたこと、冬はうち豆を一緒に叩いてつくったこと。
近くのスーパーに一緒に行って買い物をしたこと、その時には10円ガムやわたぱちを買ってくれたこと。
ピアノの発表会に来てくれるたびに私のピアノを褒めてくれたこと、誕生日にプレゼントしたエプロンをとても喜んでその場で身につけてくれたこと。
たくさんたくさん祖母とした何気ない会話や出来事を、今になって思い出しとても後悔をしています。ちゃんとごめんなさいとありがとうを伝えればよかった、そう思ってももう遅いけれど。

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先日百箇日を迎えました。法要を終えて仏壇に線香を上げたあの瞬間、あぁ祖母はもういないんだとやっと実感した気がしました。

人が死ぬということ。
心臓が止まってしまうということ。
祖母とは色々あったけれど、祖母を通して初めて「死」というものを考えました。

まだ祖母の遺影を見るとどうしたらいいのか、心の中で色んな感情が湧いてきてしまうけれど、少しずつその感情と向き合えたらと思っています。

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