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『写真』

先日『浅田家!』という、実際に写真家として活躍されている方をモデルにした、写真が題材の映画を観ました。本当は作業の息抜きで見たはずなのに(事前情報を入れずに観たのもあるけれど)、私に撮っての「写真」だったり色々考えたことや浮かんできた言葉たちがあるので、この際忘れないうちに記しておきたいと思います。


①写真を撮るようになったきっかけ

写真をちゃんと意識して撮るようになって、もう少しで1年と少し経ちます。
写真を撮り始めたきっかけは、2年次で受けた授業で講師をしてくださった写真家さんから撮ることの楽しさを教えてもらい、それから撮るようになりました。元々写真に対して興味はあったけれど、写真の撮り方から編集の仕方、1から丁寧に教えていただきました。実は学科に入ろうと思ったきっかけの1つとしても、入学時前に見た学科PRに使われていたこの写真家さんの写真と映像に惚れたから。学科に合格して2年次になったら、絶対この人に写真を教わりたいと思っていました。
(無事学科に入学し2年次後期に授業を受講しましたが、本人に気持ちを伝えられないまま終わってしまったけれど。笑)

私は写真家さんが撮る写真は、とてもやさしくて、すこし哀しくて、淡い写真だと感じています。ただ綺麗なだけじゃなくて、被写体の方々の表情や佇まい、街や映っているものから何か訴えかけるものがあるように感じます。それは攻撃的だったり尖った訴えではなく、静かに語りかけるような、心が揺らぐ何かがあると私は感じています。いつか写真家さんみたいな写真が撮れるようになりたいな、と思っています。

②私にとっての『写真』

❶「写真の持つ意味や力」

さて。
映画を観て、「写真の持つ意味や力とは?」という問いを持ちました。
色々考えた結果、私は、その時の気持ちや気温、匂い、その時間の全てが詰まっているのが「写真」なのではないか、と考えました。
残念ながら言葉は嘘をつくけれど、写真は嘘をつきません。そこに「在る」ものをそのまま写します。でもその一方で、消失してゆく全てのもの、それらはとても自然的な流れであり、その流れを破壊する行為に近いものでもあるのが写真であり、想像よりも遥かに強い力を持っていることを忘れてはいけないな、と思いました。

❷“欠片を集める”

あなたにとって写真を撮るということはどういうものなのか、と質問されることが最近多いのでこれも考えていたのですが、沢山の欠片がこの世の中には溢れていると私は感じています。それらはそっと触れないと壊れてしまうし、触れた時に傷を負ってしまう時があるのだけれど、その欠片を一つずつ丁寧に拾って自分の中に大事に集めること、これが私にとっての「写真を撮る」という行為に近い気がしています。時間や景色や人などの一瞬一瞬を切り取る、というよりも、欠片を見つけて拾ったり、時には譲ってもらいながら丁寧に集めている感覚です。

❸自己表現の一つ

そして、私にとって「写真」は圧倒的に自己表現の一つです。
写真を撮っているときは、歌を歌うときとはまた違ったベクトルで自己表現をしている感覚でいます。でも、共通して「生きている」こと、「今」を楽しいと思えている時間であり、自己の存在を認識できている瞬間でもある気がしています。まだまだ技力的にも気持ち的にも趣味の延長戦ではあるけれど、もっと上手になって色んな人や街を撮りたいと思っています。


こんな感じでしょうか。笑
私の写真を見て、写真への魅力を感じて自分も写真を撮ろうと思うきっかけになった、と声をかけてくれる人や、写真撮影を依頼をして頂けることも少しずつ増えました。恐縮ではありますが、とってもとっても嬉しいです。
学科プロモチームの活動は勿論、少しずつ私も写真家さんと同じように写真を見た誰かに何か伝えられる写真を撮れたらなと思っています。それと同様に、自分の大事な愛しい人たちや街、景色をのんびり撮っていきたいと思います。

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