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ゼミや授業での課題

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中学受験の、可哀想な、こども

中学受験の、可哀想な、こども

パァン、と、こめかみの辺りで何かが爆ぜる乾いた音がした。頂点に達したジェットコースターが急降下する時のように、一瞬、時が止まった感覚に陥る。こういうのを、人は臨死体験というらしい。実際に死んでないことを確認するため、咄嗟に瞑った目を薄く開けると、沢山の白いプリント用紙が顔の前を舞って床へ落ちていった。少しずつ視界を広げていく。向こう側に誰かが立っていた。やけに背が高く、全身黒ずくめ、髪の色だけがく

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Encounter

Encounter

 秋というのは、一年の中で最も過ごしやすい陽気だ。私のような出不精さえ心地よい秋風に充てられたいと思わせられてしまう。そしてそれは時に、不思議な出会いをもたらしてくれるのだ。

 そのたい焼き屋は東京圏から少し外れた小さな町にあった。普段なら通り過ぎる一つ前の最寄り駅で降りると、錆びた商店街のゲートが出迎えてくれた。平日の午後十一時を回ったところであろうか、青白い煉瓦道には殆ど人がいない。自転車に

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まほう薬

まほう薬

5歳のまあちゃんの好きなことは、まほう薬を作ることです。まほう薬とはその名とおり、まほうでビョーキやケガを治すだけでなくどんなお願いごとも叶えてくれる、とてもとてもすごいお薬なのです。

「さあ、今日もよくキくお薬を作らなきゃ」

 芝生マットを敷いたベランダに座ったまあちゃんは小さな手で器用にスモックの袖をまくります。後ろでは大きな窓が開け放たれ白いレースカーテンがお日さまをあびて長い髪と一緒に

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女ごっこ

女ごっこ

 小説家になる、というのが幼い頃の僕、綿貫梓の夢だった。過去形になっているのは無論、今の自分がそうなってはいないからである。コンビニのアルバイトで稼いだ都内最低賃金をいくら本に注ぎ込もうとも、ノートにいくら文章を綴ろうとも、いずれは叶うだろうと一縷の希望を抱くほど現実はそう甘くない。お陰で僕の有り金はいつしか酒代に変わるようになっていた。小説家なんて天才か少しばかり運が良かった話題性の凡人にしかな

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南極海にて

南極海にて

夏の陽射しが、ゆうらり、ゆうらりと、上空から降り注ぎ、濁った海水に色の層を作り出している。コバルトブルー、エメラルドグリーン、青藍、白群。美しい響きの持つ言葉のどれも、ここには当てはまらない。というより、あまり良くない視界では意味を持たない。水中を震わせる微かな周囲の音と、海水の温もりだけが頼りだった。

ぐおん。急に身体が上向きになった。水圧に負けぬよう、尾を大きくしならせる。光の筋は近づけば近

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ナプキン

ナプキン

そろそろかな、と思ったときにはもう遅かった。筋肉がなくなって弛んだ太ももの間の暗い部分を見つめながら大きく息を吐いて、それと同じ量の息を吸った。こびりつくようなラベンダーの臭気が酷く神経に障る。おっと。イライラしちゃ駄目よ、智恵里。真横に取りつけられている鏡へ向かって普段通りの笑みを作ってみせる。口角に厚化粧でも誤魔化しきれない小皺が浮かんだ。無表情に戻っていく自分と目を合わせたまま、股に突っ込ん

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終着点

終着点

「え、困るよおれ、そんなの無理だよ」

 ……は?

 何もなかったかのように大ぶりの鴨肉を頬張る彼を思わず凝視した。やっぱりここのローストは上手いなあ、お前も冷めないうちに早く食えよと呑気に薦めてくる。口の端にソースが付いているのを見ると、なんだか虚しくなった。

「だってさ、子供ってめちゃくちゃ金かかるじゃん?」

 渡してやったナプキンで口元を拭いながら当たり前のことを説いてくる。

「……

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焼き餅とウツケモノ

焼き餅とウツケモノ

「糠漬け食べたい」

「……え?」

「糠漬け食べたら、寝られる気がする」

 絡まった足を引っこ抜き、奥でオレンジ色に照らされた玉簾をくぐった。ワンルームにしてはちょっと大きめのキッチン。料理なんて、全くしないはずなのに、いつだって綺麗に整頓されている。

 シンク横の冷蔵庫を開けた。ひやっとした冷気がよれよれのTシャツの中に滑り込む。首のところをパタパタと仰ぐと、下顎から胸元へ玉の汗が滴り落ち

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夏の終わりに

夏の終わりに

 高校三年生の夏休みのことだ。その日は角笛のように先のとがった月がやけに朱く、雨上がりの空気がまとわりつくような蒸し暑さだった。

 コンビニを出て、すぐにパイナップルの入った缶詰のプルタブを引っ張った。平たい上蓋が面白いように丸まって、黄色い輪っかが顔を覗かせた。甘酸っぱい匂いが空っぽのお腹を刺激する。親指と人差し指で黄色い果実を潰さないようにそっと摘んで、シロップにたっぷり吸ってくたくたになっ

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四次元リュック

四次元リュック

ユキと出会ったのは、大学一年の春休みだった。小柄な身体に不釣り合いのやけに大きなリュックを背負った彼女は、嫌味じゃない笑みを浮かべて真っ黒な瞳でじっと見上げていた。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 僕もまた、目を細めて微笑み返した。印象はそれほど悪くなかっただろう。昼はカフェ、夜はバーになるメニューの入れ替えが毎度面倒なコーヒーチェーンで働くようになって約十ヵ月。面接時から店長や同僚に笑顔

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星に願いを・小暑(7月7日)

星に願いを・小暑(7月7日)

 踵の吐き潰した上履きを脱ぐと、白い靴下に穴が空いていた。またやってしまった。下駄箱のスチール扉を開きながら、芋虫のように飛び出た小指を見下ろす。部活終わりで火照っているせいだろうか、薄暗くなった昇降口の床はやけにひんやりとしていて、触れたそこだけ気持ちよかった。

「あのさ、依子」

 すぐ横で液体の跳ねる音がした。顔を上げると、モカの胸元があった。小学校、いや中学生まではあたしの方が大きかった

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居酒屋会議

居酒屋会議

 ドン、と肘でグラスを突いてしまった。

並々と注がれていたワインは振り子のように大きく波立ち、底に敷かれていた白いナプキンをべちゃりと汚した。赤い染みがあっという間に広がっていく。先まで浸されたのを浅い息を漏らしながら眺めていると、右隣りからおしぼりが差し出された。

「……ありがとう」

 笑みを浮かべ、端の方を摘まんで受け取った。おしぼりがナプキンの上に垂れて落ちる。

「どういたしまして」

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