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焼き餅とウツケモノ

「糠漬け食べたい」

「……え?」

「糠漬け食べたら、寝られる気がする」

 絡まった足を引っこ抜き、奥でオレンジ色に照らされた玉簾をくぐった。ワンルームにしてはちょっと大きめのキッチン。料理なんて、全くしないはずなのに、いつだって綺麗に整頓されている。

 シンク横の冷蔵庫を開けた。ひやっとした冷気がよれよれのTシャツの中に滑り込む。首のところをパタパタと仰ぐと、下顎から胸元へ玉の汗が滴り落ちた。

 上から二段目を覗きこみ、白い容器を手前に引いた。糠が敷き詰められたそれは相変わらず、ずっしりとしている。完璧に密封された蓋を少しずつ剥がした。

みっちゃんが作った糠床は腐ったチーズ臭さは全然ない。酸味の強いフルーツにヨーグルトを混ぜたような、甘酸っぱい香り。

ごくり。鼻孔を擽られ、溢れた唾液を飲み込んだ。

 糠の中に丸ごと浸かったキュウリを一本掘り起こし、残りを冷蔵庫にしまう。空いた左手をシンクの蛇口に伸ばした。

 生ぬるい水道水が冷たくなるのを待って、キュウリの表面を優しく、流れる透明な線に這わせた。ぽろぽろと糠が零れ落ちる。そっと手でこすると、しなやかで艶っぽいエメラルドグリーンの肌が現れた。

 水気を切り、つるつるのキュウリをまな板に乗せる。包丁はまだ入れない。

 身体を翻し、調味料や乾物、缶詰、お菓子なんかが入った三段重ねの棚に目を向ける。その一番下から「朋(ほう)月(づき)汐(しお)」と、あたしの名前を大きく書いたお徳用袋を引っ張り出した。

 入っているのは小分けにされた、長方形の白い切り餅。

 一つだけ取り出して、透明なビニールをぴりりと破いた。触り心地の良い固体を棚上の電子レンジ脇に立てかけた、手のひらサイズのセラミック板に置いた。一定の間隔で穴が開いている。モチアミっていうんだって。これを敷くと、お餅がくっつかない。すごい文明の利器だ。

 そのままレンジにかけて五十秒。ブーという音と共にオレンジ色の電灯の中で餅網がくるくると踊り始めた。その間にまな板でくったりと寝そべるキュウリを一口大に厚くカットする。

トントントントン。

 チーン。

 電子レンジの合図とともに包丁を置いた。

 振り返ると、膨れ上がったお餅がしゅ—っとしぼんだ。モチアミごとレンジから取り出した。

そこへお醤油を少々。ホカホカと湯気を立てるお餅は香ばしい匂いで食欲をそそった。思わず涎が溢れる。

お餅の上にカットしたキュウリを乗せ、醤油をちょろり。熱々のお餅の端と端を爪で摘まんで包み、そして豪快に口に入れた。

 あっつい!

 頬をはふはふと上下させる。首から汗が垂れた。

さすがに一口じゃ食べきれなくて、にゅーんと伸びた餅を噛みきった。中からキュウリがひんやりと存在感を示す。うーん、美味しい。

 熱いお餅に冷たいキュウリ。真夏には持ってこいの一品だ。

 まな板の上に残ったキュウリも口へ放り込む。にゅーん、ポリポリ、にゅーん、ぽりぽり。

 面白い触感を気分良く楽しんでいると、

「こらこら、立って食べない」

 言いながら、みっちゃんが玉簾を上げた。やばっ。慌ててお餅を飲み込んだ。

「また餅食ってんの?太るぞー」

「いいの。お餅はね、ご飯一杯の半分のカロリーだから」

 胸を叩きながら答える。

「……ダイエットするって言っていたのに」

 そう呟いた彼の足を、あたしは思い切り蹴り飛ばした。いてて、と脛を擦る。ざまあみろだ。

 手に付いた醤油を舐め、得意げに笑うあたしを、彼はじっと見据えた。

「お餅、焼く?」

「いや、いい」

「なんで?」

「小豆ないから」

「あ、そっ」

 この甘党め。善哉なんて、冬の食べ物なのに。

 残りのお餅とキュウリを口に放り込んだ。

「あ、俺にもちょうだい」

「……ふぉれは、らせってふぉと?」

「そんなわけないでしょ。あと、食べているときに喋らない」

 手厳しいなあ。まな板の上のキュウリを一切れ差し出す。

 みっちゃんは腰をかがめて、ぱくっと口の中に入れた。そして、うーんとうなった。

「ちょっと味薄かったかも」

 そんなことないと思う。けれど、糠漬けマスターに反論はしない。

 骨ばった手が目の前をにゅっと通過した。透明な水道水を近くのグラスへなみなみと注ぎ、薄い唇へ運んだ。あたしにはない喉仏が大きく上下を繰り返す。

 シンクにグラスを置き、お皿にラップをかけて冷蔵庫に閉まった。一連の動きが妙に早くて、マジシャンのようだ。

「さ、残りは明日食べればいいから。もう寝よ?」

 みっちゃんに促されるまま、冷たいフローリングの床をペタペタと叩いた。細いけれど、ちゃんと男の子って感じの、骨ばった大きな背中が眼前を覆う。

「……みっちゃん」

「ん、何?」

「……」

「寝ないの?」

「……」

 ベッドの前に立ちすくんだまま、あたしは動けなかった。

変な沈黙が流れ始めた——かと思うと、あたしの手を強く引っ張って、唇を柔らかく塞いだ。

「んんんっ」

 バランスを崩した身体は優しく抱きすくめられたまま、ベッドの上へドボンと落ちた。

温かな唇がゆっくりと離れる。

「あはは、青臭い」

 デリカシーのない言葉と共に、みっちゃんは屈託のない笑みを浮かべた。

「……馬鹿」

 あたしは彼の白くて長い首に腕をぎゅうっと回し、小さく囁いた。シトラスの甘い香りがする。ベッドのスプリングはまだ弾んでいた。

馬鹿なみっちゃん。馬鹿で優しくて、誰よりも大好きな、あたしのみっちゃん。

 ねえ、みっちゃん。

 もう会えないなんて、嘘だよね?

 みっちゃん——天ヶ崎三葉とあたしは小学校のクラスメイトだ。けれど「幼馴染み」と呼べるほど仲睦まじいものではなく、それ以前に殆ど話したことがなかった。しいて言えば、通っていたスイミングスクールがたまたま一緒で、入れ替わりの擦れ違い際にほんの少し目を合わせていた、程度。

 大学の入学式で再会したときは驚いた。丸六年も顔を合わせていなかったのに、お互い良く分かったものだ。

学部も同じで、専攻はあたしが英米文学、みっちゃんが日本史学だった。

「なんで日本の歴史学びたいの?」

 って聞いたら、

「武士になりたいから」

 だって。

「あはは、絶対無理でしょ」

 白くて細い腕を掴んで、あたしは笑った。

「えー、俺も織田信長のような屈強な武士になりたいのに」

「あ、その名前聞いたことある! オツケモノの人でしょ?」

「それを言うなら『うつけ者』だよ」

 ——彼と過ごす他愛ない時間は途切れることなく流れ、気が付くと日が沈んでいた。地元でバイバイと別れる夜は少し寂しくて、話しそびれたことを思い出しながらベッドの上で微睡んだ。そうしてまた全部忘れて馬鹿話に興じた。

 そんなふうに毎日を繰り返していたものだから、他の子達に「彼氏?」と聞かれることは少なくなかった。嫌な気は全然しなかったけれど、あたしは首を傾げてばかりだった。

 家族、恋人、友達……どの名詞もあたしたちには似合わない。お互いがお互いを唯一無二の特別な存在と認識している。ただ、それだけ。

 周りから変だと思われようと構わなかった。少なくとも、あたしたちは一緒にいられる、明日もまた笑って意味のない会話ができる、そう思っていた、のに。

「俺、しばらく汐と会えないわ」

隣町のダイニングバーで告げられたあの言葉。あまりにも突然の事だったから、飲んでいたカクテルを吹き出しそうになった。

「ななななな、なんで?」

「いや、彼女がさ——」

 は? カノジョ?

 空っぽの脳内でポップコーンが弾けるようにハテナマークがぽんぽん沸き上がった。

 カノジョがいることが問題なのではない。カノジョというワードを理由にしたことにびっくりのだ。

 カクテルグラスを持つ指先が小刻みに震えた。淡緑色の表面が輪っか状に波打つ。こんな時にギムレットなんて。ちっとも、面白くない。

 カノジョがいたって、今の今まであたしたちの関係は変わらなかったのに。

どうして今になってそんなこと言うの?

「ねえ、みっちゃん」

 白い天井をぼんやりと見つめながら、あたしは呼び掛けた。

彼は返事をしなかった。代わりに、すーすーとした寝息が聞こえてくる。

 あたしは寝ているみっちゃんの横顔を眺めた。

 女の子のように極め細やかな白い肌。海苔みたいに真っ黒で長い睫毛に、醤油色の赤茶けた髪。カーテンの隙間から差し込む朝の光に照らされ、口元の周りが少し青くなっているのが分かる。まるで、キュウリの棘のような。

 みっちゃんを見ていたら、またお腹が空いてきた。

ベッド脇の棚に置いてある目覚まし時計に目を移す。時刻は午前四時過ぎ。

あたしはそっとベッドから降りた。床に落ちた黄色いワンピースを拾い上げ、借り物の大きなTシャツから着替える。しっとりとあたしの肌になじんだ。

裾を整えて携帯電話とお財布の入ったポシェットを肩に掛ける。静かに眠るみっちゃんを見てから部屋を出た途端、大きなキャリーケースの角に盛大に足をぶつけてしまった。横に積んであった旅行雑誌がばさばさと雪崩れた。

「…………ぅぅうううっ」

思わず低い声が漏れた。もう、どうしてこんなところに置いておくのよ。

 みっちゃんの、馬鹿。

 キャリーケースを脇に寄せ、玄関の扉を開けた。

 みっちゃんと会わずに三週間が過ぎた。まだ三週間というべきか、もう三週間というべきか。

時の流れは既にめちゃくちゃになってしまっていて、あたしの日常も止まっていた。

三年にもなると大学生の夏休みは特別感もない。家にいるとお母さんの口からインターンだとかシュウショクセツメイカイだとか飛び出してくるので、殆どの時間を外で過ごした。

 あれから連絡は、ない。

 携帯を開いて最後のメッセージを見る。あの日の「お腹空いたから帰るね」というあたしの言葉に「分かった。気を付けてね」という返信だけ。

 みっちゃん……何にも分かってないよ。

 トーク欄に「会いたい」と打って、消した。

 蝉が煩いくらいに鳴き、遠くの方では陽炎が揺らいでいる。夏の押しつぶされそうな暑さを、最近は嫌いになれなかった。

 白いロングスカートで覆われた内腿と首筋から汗が滴っていく。行く当てもなく灼熱の太陽の下をぶらぶらと散歩していると、みっちゃんのマンション近くまで来てしまった。

思わず苦笑いを浮かべた。部屋のカーテンは閉められたままだ。

 今頃は、カノジョと楽しんでいるのかな。

 右の小指がじんじんと疼いた。

——あの後、家に帰ったら白い靴下に朱が滲んでいた。慌てて脱いだら、爪の周りが赤黒くなっていて。大したことじゃないのに、痛みは全身に広がっていき、しまいには芋虫みたいに床へ転がって、みっちゃんの名前を叫び続けた。

こんなことをしても、何の解決にもならない。大きなため息を吐いた。額から汗が零れる。ゆっくりと踵を返した。

視線の先で何かがキラリと光る。目を凝らすと普通の自動販売機……ではなかった。

急に身体が重くなった。かと思うと、あたしの足はそこへ向かって勝手に、しかし正確に進んだ。

数センチ前でぴたりと止まる。知らないうちに握っていた硬貨を投入し、迷うことなく一つのボタンを押した。

 ガゴン、と中から音がした。取り出し口に手を突っ込むと、ひんやりとした缶の感触が直に伝わってくる。そうっと引き抜いた手には新発売と書かれた冷たいおしるこ缶があった。

 夏でも、あるんだ。

プルタブを手前に引く。普通の飲み物よりもどろっとした中身が見えた。おそるおそる口へ運ぶ。ぎゅっと目を瞑り、ちょっとだけ含んだ。

 花火大会も、旅行も、今年もまた一緒に行けるって思っていた。別にカノジョがいても良い。優しいみっちゃんはそういうの断れないって知っている。

でも、さ。

「……あっま」

 甘い。甘すぎるよ、みっちゃん。

 べったりとした小豆の感触が口の中に残る。もう飲めそうになかった。

捨てるに捨てられず、熱くなった自動販売機にぼんやりと寄りかかっていると、

「まーた、立ち飲みしてるー」

聞き覚えのある声がした。暑さにやられてしまったのだろうか。

「……みっちゃん?」

「ただいま、汐」

 彼はあたしの目の前に来ると、にっこりと微笑んだ。

 夢でなら、こんなにはっきりしていない。けれど、三週間ぶりの彼は、なんだか——

「なんか、焼けたね」

「武士っていうよりは、海賊だよなあ」

 ははは、と恥ずかしそうに声をあげた。白い肌は浅黒く日焼けし、零れた八重歯が際立っている。

 聞きたいことはたくさんあるはずなのに。おしるこが喉に張り付いてしてしまったようで、何も言葉が出て来なかった。

「全然連絡取れなくてごめんなー。イタリアの写真、汐にいろいろ送りたかったんだけれど、携帯水没させちゃって」

 え? イタリア?

「みっちゃん、イ、イタリア、行ってたの?」

「この前、バーで言ったじゃん。彼女がイタリアのペアチケット当てたから、三週間くらい会えないって」

「……」

 そっか、そうだったんだ。

足の力ががくんと抜けた。あたしの身体は落としかけた缶と共に器用にキャッチされる。涙がとめどなく溢れた。

「なっ、なんでっ、みっちゃ……」

「うん」

「あっ、あたし、ずっと…………待ってた、のに」

「うん」

「遅いよぉ、馬鹿ああぁあぁ」

「うん、ごめんな」

 道のど真ん中で泣きじゃくりながら、あたしはみっちゃんにしがみついた。Tシャツをびしょびしょに濡らしてしまったけれど、文句も言わず、優しく背をさすってくれた。

「ううっ、うっ、ううぅ……」

「今度は一緒に行こうな。俺が案内するからさ」

「うぅ……ぅん、うん」

「……」

「……」

「ちょっとは落ち着いた?」

「……ん」

「じゃあ、こっち向いて」

 朱くなっているに違いない目と鼻が恥ずかしくて顔を上げられずにいると、あたしの口に何かを入れた。爽やかな酸味が甘ったるい口内を解消させる。ゆっくり歯を入れると、小気味良い音がした。

「昨日漬けたんだけど、どう?」

「……しょっぱい」

 鼻水をすすりあげた。みっちゃんはけらけらと笑った。

「じゃあ、うちで冷たい麦茶でも飲むか」

おしるこ缶を美味しそうに飲みながら、立ち上がって、日焼けした右手を差し出した。強い力で引っ張り上げられる。

まだ、離したくなかった。

「お餅、まだある?」

「もちろん」

「じゃあ、食べる」

「俺にも焼いてよ」

「……やだ」

 何でだよ、というみっちゃんに思わず笑った。蝉が煩いくらいに鳴いている。汗ばんだ指を絡ませ、同じ歩幅で、お餅が膨らんだような入道雲の浮かぶ夏の青空の下を歩く。

 いつまで一緒にいられるかなんて、分からない。けれど、今はまだ一緒にいられると思う。馬鹿らしいかもしれないけれど、そう、信じている。

 みっちゃん。あたしはね、みっちゃんが一番好き。

※恥ずかしながら、初めてゼミの選考課題で書かせていただいた小説です。今読むと文章力もだいぶ低くて恥ずかしいのですが、ふと思い出した感情だったのでアップしました。最後まで読んでいただけたなら幸いです!また、ツイッターも初めてみましたので、宜しければプロフィールからフォローリクエストください。

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