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四次元リュック

ユキと出会ったのは、大学一年の春休みだった。小柄な身体に不釣り合いのやけに大きなリュックを背負った彼女は、嫌味じゃない笑みを浮かべて真っ黒な瞳でじっと見上げていた。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 僕もまた、目を細めて微笑み返した。印象はそれほど悪くなかっただろう。昼はカフェ、夜はバーになるメニューの入れ替えが毎度面倒なコーヒーチェーンで働くようになって約十ヵ月。面接時から店長や同僚に笑顔が良いと褒められることは多かった。

 視線を合わせたままユキはちょっとだけ首を傾げた。リュック紐をぎゅっと握りしめる。カウンター越しでも分かるくらい、小さな両手を真っ赤にして、ぎゅっと。

「ニコさん」

 ふいに、名前が呼ばれた。彼女の薄い唇から漏れたものだと気づくのにやや時間がかかった。

「……どうなさいました? お客様」

 誰かのために作られた、誰のためでもないマニュアルを暗記していたことが初めて役に立ったと思った。正直、この瞬間も半信半疑だったくらいだ。童顔からは想像できないほど、彼女の声はそこらの女性よりも落ち着きを払っており、若さゆえの甲高さは全くなかった。白い喉元が上下するのを見ていなければ、ブランド物で身を固めた一流企業のオフィスレディと勘違いしていただろう。ここがそういった街なこともある。

 ユキはまた長い睫毛を虫の羽根のように素早く震わせたが、今度は無邪気に白い歯を覗かせた。サイドポケットから取り出したスマートフォンの画面をこちらに向ける。自分の頬が引きつったのが分かった。

「ニコさん、今日何時までなの?」

 赤いニット帽に付いたファーがてっぺんで跳ねた。

「今日は、夕方……えっと、十八時に上がります」

 あと三時間、と付け加える。ユキは満面の笑みを浮かべた。律儀に会釈をし、自分の席へ戻っていく。死角になって見えなくなるまで、目で追いかけた。重たげに左右に揺れる黒いリュックはまるで亀の甲羅のようだった。

 ニコさん、と呼ばれた時点で感づいていた。けれど、本当にバイト先までわざわざ足を運んでくるとは。天井に目をやった。薄い布をまとった肉付きの良い女の絵が描かれている。きっと海外の有名な絵画の模倣だろうが、タイトルは分からない。そもそも、これに気づく客なんてどのくらいいるのだろう。そんなことを考えていると、太ったご婦人がカウンターへやってきた。背筋を直し、「いらっしゃいませ」と控えめに微笑んだ。

勤務を終えて更衣室兼事務室の扉を開けると、二人の女性スタッフが話し込んでいた。

「ああ、お疲れ」

 椅子にだらしなく身を預けた茅ケ崎先輩が振り返った。

「お疲れさまです」

 扉横の出勤管理タブレットにタッチしながら軽く頭を下げた。茅ケ崎先輩に対面して立っているアルバイトの女の子は少しだけこちらに目を向けたが、構わずに話続けていた。僕はロッカーに迎い、帰りの身支度を始めた。

「で、テーブル拭いたのかどうか聞いたら、ぼそぼそ小さい声で拭きましたって言われたんです。でもその後にまだ拭いていない席に普通にお客さん案内しちゃったんですよ。そんなこと、居酒屋でも今やらないですって」

 背後でわざとらしい溜め息が聞こえる。新しくアルバイトで入ってきた男性フリーターであることはすぐに分かった。夕勤のシフトが多いようで、自分とはほとんど接点がなかったが、評判が芳しくないことはこうやって耳にしていた。

「いやー、本当あいつマジで無理なんですけど。もう試用期間終わってますよね? 仕事できなさすぎっていうか、いつまで新人気取りだって感じ。チーフどうにかしてくださいよ」

「……うーん、そうねえ」

 茅ケ崎先輩が顔をしかめたのは見なくてもわかった。『チーフ』と呼ばれるのを彼女はなぜか嫌っていた。

「新妻さんはどう思う?」

 女の子が急に話を振ってきた。丁寧に畳んだ黒いエプロンの真四角が少しだけひしゃげた。

「僕はあんまり一緒になったことがないから分からないかなあ」

「まあ、そうですよね。ちゃんとご注文札を確認してくださいって言ってるのに、運び漏れは多いし、未だにレジ打ち間違えるし、そんな気持ち分かるわけないですよね」

「ははは」

 畳み直したものをロッカーにしまった。女の子はまたも息を吐いた。後ろで緩く三つ編みにした茶髪が振り子のように揺れる。

「彼もいろいろ大変みたいだから。多めに見るしかないのかなあ」

 言いながら先輩はこちらに視線を投げかけた。すぐに、逸らした。

 女の子は明らかに不服そうな顔をしたが、何も言わなかった。躊躇いがちに扉が開いたからである。

「……おはようございます」

噂の彼は低く挨拶をした。俯いていて表情は分からない。ドアノブを握った手が小刻みに震えていた。

「お先に失礼します」

 暖房の効きにくい部屋がさらに寒さを増した気がして、僕は彼の横を自然にすり抜けた。

 ユキは外で待っていた。ぐるぐるに巻いたマフラーから飛び出した鼻の頭と頬が赤くなっている。中で待っててくれて良かったのに、と声をかけると楽しそうに首を振った。

「何か食べて行こうか」

「何かって何?」

「え? そうだなあ。居酒屋かファミレスにでも入ろうと思っていたんだけど……何か食べたいものはあるの?」

 不服そうな色を浮かべた彼女に問いかけた。やっぱり年頃の女の子はお洒落なイタリアンやフレンチだろうか。給料日前の財布を気にする僕の傍ら、ユキは考え込むように雲が覆う低く垂れこめた藍色の空を見上げた。しばらくして、ひらめいたように僕の手を掴んだ。あまりの冷たさに変な声が出てしまった僕に構わず「コンビニのカレーがいい!」と無邪気に笑った。

 バイト先から家までは約三十分。電車一本で行けることと、大学への乗り継ぎも便利だったことが働く動機だった。冷たい風の吹く地下鉄のホームから暖房の効いた車内に入ると、ユキは手をほどいて大きなリュックサックから豪華な装丁の分厚い本を取り出して開いた。ページには大量のアルファベットが並んでいる。

「その本、面白い?」

「ぜーんぜん」

にいっとリスのように笑った。全然つまらないのか、全然面白いのか、よく分からない。灰色のコンクリートが変わらずに眼前を流れていく。肩の横で帽子のファーがリズミルカルに流れるのを窓ガラス越しにぼんやりと眺めていた。

自宅のマンションに到着するなり、ユキは大袈裟に歓声を上げた。靴を脱ぎ捨て、廊下に上がる。静脈の浮き出た青白い素足がペタペタと音を立てた。散らばった二足を玄関の端に揃えた。バレリーナが履くような平たい赤いパンプスは人形のものであるかのように小さかった。

「ニコさんはお金持ちなのね」

 帽子を取って肩よりも長い栗色の髪をしならせて振り返る。まさか、と手を振った。

「うちの祖父母が買ったみたいなんだけど、使わないからって譲ってもらったんだよ」

 本当だった。事実都内にある実家は通学するのに特別遠いわけでもない。不思議そうに首を傾げる彼女を十畳のワンルームへ招き入れた。右からベッド、ソファ、ローテーブル、テレビ以外の家具が一切置かれていないことに目を丸くしたが、ニコさんらしいと笑った。

 ユキが手を洗っている間、缶ビールを開けてテレビを点けた。ちょうど七時のニュースが放送されていた。アナウンサーは硬い表情で先週から行方不明となっている女子大生のニュースを読み上げていた。ビールをゆっくりと口に運びながら白いテロップを目で追う。「山鹿紗良さんは赤いダッフルコートに黒いリュックを背負っていて――」

「ねえ」

 後ろから肩を叩かれ、含んだビールを一気に飲みこんでしまった。昨日できたばかりの口内炎に染みる。目尻に少量の涙が滲んだ。

「ここの水道って水しか出ないの? あとでお風呂入れたいんだけど」

「そんなことないよ。後で教えるね」

「ありがとう」

ユキは隅に置いていたリュックを近くに引き寄せて隣に座った。細い指で茶色のビニール袋を丁寧に剥ぎ取る。ニュースは次の話題に切り替わっていた。

「ニコさんはどうして出会い系なんてやっているの?」

 スパイスの香りを部屋中に充満させて尋ねた。

「うーん、なんでだろう。暇だからかなあ」

「暇?」

 カレーを混ぜる手を止める。そんなに予想外な答えだっただろうか。

「じゃあ、ユキは?」

「私はね、冬だからだよ」

 白いスプーンに乗せたぐちゃぐちゃのカレーを頬張った。小さい口だ。歯の隙間から覗いた舌がぺろりと唇を舐める。咀嚼して飲み込む時に上下する喉元と同じタイミングでビールを飲み下していると、ユキの手が止まった。

「食べないの?」

 僕は苦笑いを浮かべた。

「食べたくても、食べられないんだよ」

 袋に入ったままの上蓋に湯気のこもった親子丼に視線を映した。何度か瞬きをしてから大きな目をさらに丸くした。

「家にないの?」

 ユキが顔を覗き込んでくる。

「あまりモノを置かないようにしているからね」

 そう言うと、黙ったまま後ろを向いた。リュックの中に棒のような腕を突っ込む。ぱんぱんに膨らんだ布がテレビCMで見た胃袋のように内側からうごめいていた。手が引き抜かれた途端、動きを鎮める。くたくたになったビニールに覆われた割り端をユキは「どうぞ」と差し出した。

「こんなものまで持ってるの?」

「色々持ってると、たまには役立つからね」

 得意げに微笑んだ彼女にありがとうとお礼をして受け取った。

 食事を終え、二本目の缶ビールを取った。目の前では騒々しいバラエティの笑い声が、後ろでは控えめなシャワー音が響く。テーブルに置かれたスマートフォンにはピンク色の画面が映っていた。

 出会い系を始めたのは去年の年末のことだった。早二ヵ月強もこれにお世話になっている。クリスマスやお正月という冬ならではのイベントを目前に一年以上も付き合っていた彼女に振られたことを機に、友人に面白半分でそのアプリを紹介されたのだった。出会い系と聞いて良い印象を抱いていなかったが、現代のネット社会というものは非常に発達しているらしい。恐れていたようなことは何一つ起こらず、むしろクリスマスもお正月も楽しいひと時が過ごせた。

 画面には登録している女性の写真とプロフィールが出てくる。好みであれば右へスワイプ、気に入らなければ左へスワイプ。それを次々に繰り返していき、女性の方からも良い反応が得られればカップル成立としてメッセージを送ることが出来る。そこで話が合えば会ってみようかという具合だ。

元カノのこともあって、僕は年上に良く好まれた。実際、本当に付き合わないかと何度か告白もされた。もちろん、毎日美味しいご飯を奢ってもらって違う女を抱けること、安っぽく言えばチヤホヤされることは非常に心地よかった。けれど、ワンパターンな薄情けは数か月もすれば飽きる。ユキを見つけたのはそんな時だった。

 プロフィールはデタラメだった。年齢は百二十歳、出身地は山の中(今は冬眠中)、趣味は修行、好きな動物はリュックのクロちゃん……律儀に全ての欄を埋めていたのに、本当らしいことは何一つ書かれていなかった。

 おかしな女だと思った。けれど、写真の中で無邪気に笑う彼女は適当なプロフィールと相まって魅力的だった。地下アイドルか誰かの拾い画像かと検索もしてみたが、どうもヒットしない。やっぱり、本人なのだろうか。彼女のことが気になって仕方なかった。

しばらくして向こうから連絡があった。そして、今日に至る。実在するかどうかも半信半疑だったので、バイト先で会えた時は驚きと嬉しさが混ざって妙な気持ちになった。

ユキ。僕の、ユキ。

フリックせずにアプリを閉じた。シャワー音が止んでいた。

「ニコさん!」

脱衣所の扉が開いた。バスタオルを巻きつけたまま慌てた様子で廊下のフローリングに足跡を残しながら飛び込んできた。髪や指先からぽたぽたと水が滴っている。目のやり場に困った僕は「どうしたの」と言うので精一杯だ。ユキは叫んだ。

「今日クロちゃんを洗う日だった!」

 リュックを引っ掴み、豪快にひっくり返した。本、目覚まし時計、化粧品、スマートフォン、ドライヤー、カメラ、ぬいぐるみ、洋服……出かけに必要なのかと思うようなありとあらゆるものが次々に床へ落とされていく。あっけに取られていると、抜け殻のように力無くしおれたリュックを左胸に抱え、もう片方は僕の手首を掴んでいた。

「早く! 行くよ!」

「え?」

 引っ張られるまま、脱衣所に放り込まれた。

オレンジ色の光が灯る風呂場で肋骨の浮き出た胴体や膨らみの少ない乳房が露わになる。こんなにも細い身体であれほどの荷物を背負えていたのが本当に不思議だった。

ユキは慣れた手つきでシャワーを優しく当てがった。黒いリュックは湿りを増して深く濃くなっていく。十分に濡らしたところで桶に浮かべ、泡立てられたボディーソープでぺしゃんこになった布を撫でる。赤子と入浴をする母親のように穏やかな表情を浮かべる彼女につい見とれてしまったが、我に返ると、僕はボディーソープを手に取って、乾いていく彼女の身体へと同じことをした。

首からお尻にかけて丁寧に白い泡で覆っていく。ユキは心地よさそうにうっとりと身を委ねていた。今までも誰かにこうしてもらっていたのだろうか。全身くまなく洗ってやると、身体とリュックへ交互にシャワーを浴びせた。泡がどろりと溶けて排水溝に溜まる。雑巾のように硬く絞ってからノブへ持ち手を引っかけた。

一仕事終えたというように息を吐いた。足先からゆっくりと風呂の中へ沈めていく。ニコさんも、と手招きされ、やむなくユキを抱きしめるように腰を落とした。ぬるくなったお湯が縁から溢れた。

「ニコさん」

 籠もった空間に彼女の声が反響する。やけに色っぽい。

「なに?」

「あのさ」

「うん」

「私の身体、変じゃない?」

リュックの底からぴちゃぴちゃと断続的に水滴が垂れる。

「どうして?」

「私……山修業が趣味だから」

 風呂が冷めているせいで直に伝わるユキの熱が僕の身体を温めてくれた。濡れた髪が薄紫色の痣や細かな傷のついた肩の上でべったりと渦巻き模様を描いている。

「別に。普通じゃない?」

 目を閉じて微睡ながら答えると、ユキは「そう」と上擦った声で言った。瞼の裏には彼女の生活が集約されているぎゅうぎゅうにつまった中身が映る。どうやったらあれほどの物を詰めることが出来るのだろう。奥行きの良く見えないリュックはまるで何でも出てくる四次元ポケットのようだ。

ユキを強く抱き寄せながらSFじみた呑気なことを一生懸命に考えていた。

 

それからユキは僕の家に住まうようになった。住まうと言っても家事を肩代わりするようなことはなかった。ただ帰って食べて眠るだけの、同居人という方が近かった。けれど特段不都合もなかったので、そのまま居座らせておいた。合い鍵は渡さなかった。というより、受け取ってくれなかった。ユキは日中からバイトの僕と必ず一緒に出て、カフェで読書をして過ごし、僕のシフトが終わるころには外で待っていた。たまに何かの用事でふらりと家を出ていくことはあったが、そんな時は駅で遭遇して帰ったり、扉にもたれかかって本を読んだりしていた。

学校が始まっても、その生活に変わりはなかった。ルーティンがバイト、学校、帰宅の順番になったくらいだ。冬の寒さを敬遠して休み期間中は朝出勤をしていなかったのだが、窓から降り注ぐ柔らかな日差しを浴びながら少ないお客さんを眺めているのが僕は一番好きだった。

 梅雨明けのうだるような暑さがやってきた頃、夜勤のヘルプで急遽呼び出された。どうやら、あのフリーターがついにバックレてしまったらしい。

「すぐ帰るから」

 玄関まで見送ってくれたユキは笑って頷いた。

「じゃあ、行ってくるね」

「ニコさん」

「なに?」

 半分ドアを開きながら振り向く。珍しく真剣な面持ちをしていた。

「どうしたの?」

「……私さ、クロちゃんに入るかなあ?」

思わず吹き出した。

「あはは、どうだろうね。帰ってきたら試してみようか」

「本当?」

 瞳を輝かせて甲高い声をあげた。ユキは扉が閉まるまで嬉しそうにぶんぶんと手を振っていた。

 お店は中高生たちも春休みに入ったようで平日も客足が途切れることはなかったが、休日の午後よりはマシであった。ホールには新しいアルバイトが既に二人いて、それほど忙しいわけでもない。新入りだけだと不安ということなのだろう。自己解釈しながら僕は淡々と業務を熟していった。

クローズ後、茅ケ崎先輩は申し訳なさそうに手を合わせた。

「新妻……航平くん! 今日は助かった、ありがとう!」

「いえいえ、僕は暇なので」

二人だけしかいない空間の床をモップで拭きながら口の端を吊り上げる。先輩はお礼に何か奢らせて欲しい、と申し出た。もちろん断ったが、そう簡単に引き下がらないことは十分分かっていた。仕方なくユキに遅くなると連絡をして、少しだけ付き合うことにした。

日々の業務で疲弊しているのか、先輩はビール一杯で茹で蛸のように顔を赤らめて普段に増して陽気だった。ひとしきり話をした後、先輩は「あのさ」と低い声で切り出した。

「航平くんって、今付き合っている人とかいるの?」

 ビールジョッキをゆっくりとテーブルに置いた。先輩は俯いている。僕は笑みを浮かべた。

「いませんよ。どうしてですか?」

「……見ちゃったんだよね。この前」

 朱色の唇だけを凝視し、何も言わなかった。先輩は顔を上げた。

「やっぱり、あの子って――」

 ダン!

テーブルに両手を突いて立ち上がった。周りがぎょっとしたように視線を向けた。僕は一万円を投げ捨てて、微動だにしない先輩の前から去った。

 どす黒い霧が胸中に広がっていくような気がした。心臓がやけに脈打つ。

大丈夫、大丈夫。

家に帰ればきっといつものように笑いかけてくれるに違いない。

大丈夫、大丈夫――。

そう、言い聞かせた。

汗まみれの中、マンションへ到着した。急いでドアを開ける。

「ユキ!」

僕は叫んだ。

「あ、お帰り」

 そう言ってにこにこと出迎えてくれるユキは、もう、いなかった。

膝から崩れ落ちた。ユキもユキのリュックもなくなった無機質な部屋の中でテレビだけが青白く光を発している。数ヶ月前に行方不明だった女子大生が保護されたというニュースが流れていた。

僕は自分の犯してしまった失態を恨んだ。

僕は知っていた。

知った上で匿っていた。

被害者、容疑者、共犯者、誘拐犯……世間からどんな評価されるかなんて一九歳の僕には想像もつかない。けれど、別にどうでも良かった。僕のユキが側にいてくれるのなら。

「うわああぁああああぁあああぁああ」

泣き叫ぶことしかできなかった。遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。

結局、僕は証拠不十分ですぐに釈放された。きっかけとなった出会い系は僕と出会ってすぐに退会してしまったらしく、履歴が残っていなかった。僕は彼女と過ごした約半年を事細かに話した。誘拐されて行方不明になったのではなく、自ら失踪して逃げていたことも、全てだ。けれど、警察は良い所の私立大学に通う一人娘がそんな目に合っているはずはないと笑い、まともに取り合おうとはしなかった。

ユキはそのまま家に戻ったのだろうか。また家族に暴力を振るわれているんじゃないだろうか。ユキのことばかりがぐるぐると頭を巡った。

色々なことが手つかずになり、アルバイトを辞めることにした。今まで働きづめだったお陰でそれなりの貯蓄はあったし、良い機会だと思った。最後の出勤の日、先輩は疑ってごめんなさいと涙を流しながら何度も謝った。いいんです、と彼女をなだめた。本当に怒っていなかった。元とはいえ恋人だった人間が誘拐犯だったらと考えれば不安にもなる。むしろ元恋人としても職場の後輩としても心配してくれた先輩の気持ちが僕は嬉しかった。

ユキ、いや、山鹿紗良は何者かによって誘拐された可哀想な女の子――世間の目にはそう映るだろうし、きっとこれからそういうレッテルを貼られて生きることになるに違いない。けれど、実際はどうだ。身内や警察という大人たちに真実を隠蔽され、小さな彼女は今も、一人もがき、苦しんでいる。

コンビニのカレーが好きなユキ、いつも難しそうな洋書を読むユキ、虐待を修行と呼ぶユキ、大きな重い荷物をいつも背負っていても無邪気に笑うユキ……そんな彼女を知る人間がこの世にどれだけいるのだろう。少なくとも、僕は知っている。

ユキ、僕のユキ。

 入道雲の浮かぶ空を見上げた。また半年もすれば、君の好きな冬がやってくるに違いない。

 ただいま、となんてことないようにユキが帰ってくるのを想像して、僕は微笑んだ。

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