「記憶における沼とその他の在処」/岡田一実 読書会記録①

「記憶における沼とその他の在処」

この句集がとても好きだが、実はどんなに好きか説明しきれる自信がない。

深い青の装幀と軽さ、句集をぱっと開いた時の句の並びやその景色、明るさの変化。それに句の濃淡、一句一句の音韻なども含めてこの世界に惹かれている。ときどきこういう句集があって、付箋をつけて何十回も読み返してからお気に入りの棚にしまっておく。

句集はここから買えます。https://www.amazon.co.jp/記憶における沼とその他の在処-岡田一実/dp/4861984084

**以下は、最近少人数で行った「記憶沼」読書会のレジュメです。

■構成
1-4章から成り、1章と4章の中に全体の流れを決める句が入っているので、以下では1・4章について取り上げる。
1. 暗渠:ぼんやりした意識の表層のようなもの。沼。
2. 三千世界  どちらかというと現実の句が多い
3. 空洞    
4.水の音: 再び現実、そして時間の流れ

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第一章の1句目は、

火蛾は火に裸婦は素描に影となる

火蛾は火により、裸婦は画家の認識により影になる。三島ゆかりさんもブログで書かれているが、この上5と中7は単純な対応関係ではない。


火蛾→影
(作者の認識)→裸婦素描(影)

「火」に対応するのは「作者の認識」だが、読者が読んでからそれを理解するまでに一瞬の間が生じる。そしてそれを考えるとき、どうしても裸婦と素描の違いを考えてしまう。イデアの洞窟の比喩と同じく、素描は本物の裸婦にどんなに近づいても同じものにはなりえず、影でしかない。俳句もまた、素描と同じく作者の世界認識の影と言えるのではないか。この句を巻頭に置かれると、ここから続く句群もまた世界の認識の影であることを意識する。句からゆらゆらと絶え間なく立ちのぼる世界を想像する。


コスモスの根を思ふとき晴れてくる
なぜかすごく好きな句。美しいコスモスにも暗い根があることを思い出してなんとなく明るい気持ちになる。コスモスはもともと高原に多く咲く植物で、水を与えすぎると枯れてしまうらしい。

声やがて嗚咽や林檎手に錆びて
長い苦しい時間経過があって、それでも、

暗渠より開渠に落ち葉浮き届く
暗渠は閉ざされておらず世界とつながっており、ときどきうまく届いたりする。

明確にゆるぶ木の芽や黙示録
黙示録とは隠されていたものが明らかにされる記録ということ。明るいほうに変化していく上5中7に、やや不吉な下5の取合せがよい。

蝉歩く破船を陸にうち捨てて
脱皮したばかりの蝉の抜け殻が破船。これも水分の多いところから乾いた陸に上がってくる変化がある。

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一方で4章は時間経過を感じさせる句が多い。

海を浮く破墨の島や梅実る

週刊俳句で議論になっていた句(うまくリンクが貼れなく一番下に書いています)。「梅実る」は時間経過を思わせる季語。

名月や痛覚なしに髪伸びて

好きな句…。痛覚なしに髪や爪が伸びる奇妙さ、そこに名月を合わせてくるのが曰く言い難い面白さ。そして自分が生きつづけていることへの違和感。


死者いつも確かに死者で柿に色

死者は動かず、死者として確定されたStatusのままだが、生きているものには絶えず時間が流れていく。


くらがりの沼へ水入る蛾の羽ばたく

1章目と同じ沼の句。沼に新しい水が足されぬるりとした動きがある


白藤や此の世を続く水の音

現実と幻想の境目がわからなくなっていくような。人間が生きてきた時間の流れが、此の世にとどまらず彼岸へ続いていくようなイメージ。

自分と死者との違いを感じる句もいくつかある(冷蔵庫と死肉の句、死者の句、墓と吾の骨の句、体内を管はの句の生命力、仔馬の生命力)。

つづく

三島ゆかりさんのブログ:http://misimisi2.blogspot.com/2018/10/1.html

堀下翔さんによる週刊俳句の記事:http://weekly-haiku.blogspot.com/2018/10/blog-post_89.html

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