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生の記憶について―20190714日記より

自分を描いた。

佐々木めばえ。人間。



真正面から自分を見ないと、描き上げられなかった。
描きながら、今まで生きてきた中で受けてきた愛が、走馬灯のように胸に流れて来た。関係を表す一般的な概念では説明しきれない関係を築いてきた人たち。愛おしい人たちの笑顔、まなざし、共有した時間と温度。幼い頃の記憶、思い出す度に身体が包まれるようなあたたかさを感じる想い出。悲しかったこと切なかったことやるせなかったこと。思い出すと心が痛む、自分の弱さゆえに人を傷つけてしまった後ろめたさ。今まで私がしてきた失敗が、後悔が、世界から受け取ってきたものが、波のように心に押し寄せて来て、生まれてくる前に佐々木めばえを選んだことまでも思い出して、涙があふれ出てきた。

どれだけ愛されてここまで生きて来たんだろう。なんてあったかかったんだろう。なんて不完全な人間なんだろう。どんなに理解してもらっていたんだろう。私は、受けて来た愛の分、受け止めてもらった分、一人一人の人に、何かできているんだろうか?迷惑をかけてしまったあの人に、傷つけてしまったあの人に、ちゃんと謝れたんだろうか。


自分がどういう人間で、何をしていて何をしたいと思っていて、何が好きで何が嫌いで、何に自信があって何に自信がないのか。誰を愛していて、何を大事にしているのか。自分が自分であることを、何も恥ずかしがることはなかった。嫉妬も怒りも恐れも、自信のなさも後ろめたさも。私の心に起きたことを丁寧に紐解いていくことで、きっと誰かほかの大事な人の心を知りたいって思ったときにその解いた紐が道を示してくれる。

あのとき、自信がないなら、おっきい声で「まったく自信ねえ!」って言ってしまったらよかったんだ。「助けて」って、「できないから助けて」って、なんでどうしてあのとき私は、言えなかったんだろうなあ。完璧になることで誰かの力になれるって勘違いしていたんだ。相手のことを信じ切れていなかったのは、その人の前で、わたしがわたし自身でいることを許そうとしていなかったからだ。


人間は完璧を目指したがる生き物だけれど、完璧になる生き物ではない。そして生まれたときにすでに、私たちは完成している。弱さを包んだ不完全で、完成している。

今ここに、身体を持って、名前を持って、存在していること。生きるということを選んで地球に、この体に飛び込んできたことを思いだした。

腕の皮膚をつねってみた。指を動かしてみた。耳を、口を、鼻を、触ってみた。目を撫でた。私が望んだものはすべて今ここに私と共にあった。感覚受容体を持って、心にも受容体を持って、存在しているということが、私の周りにいる人たちも植物も虫も動物もみんな同じだっていうことが、叫びたいほどに愛おしくて感動してたまらなくなった。わたしの身体はいつも、生きていることを喜んでいたんだ。

愛おしいあの人も、会いたいあの人も、恋しいあの人も、謝りたいあの人も、好きだよって大事だよって伝えたいあの人も、その人がその人として存在できるのは、身体があるうちだけ。魂はいつか元いた場所に還る。私が佐々木めばえをなつかしむ日が来る前に、その人がその人であったことを忘れてしまう前に、身体の中に、私たちが存在しているうちに。

佐々木めばえの生の記憶を、もっと。