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唯一無二になりたいの

自分は特別だと思って生きてきた、つい最近まで。そうでないと、自分を保てなかった。唯一無二になりたかった。

人生の中で歴史に残るような何かを成し遂げて死ぬのだと信じてやまず、自分が理解されないと「あぁあなたとは違うから」と妙に納得して、「誰もわかってくれないから私はみんなとは違う」と言ったときに「君もみんなと一緒だよ」という励ましがひどい侮蔑に聞こえて、その度に憤慨し絶望を味わった。

今思えばあれは、自分の中のファシズムだった。

好きなことをしなければならない、他人と違うことをしなければならない、個性を出さなくては自分が埋もれてしまう、私は何かを成し遂げねばならない、尊敬されるようなことをしなければならない、ならない、ならない。

「ならない」なんてことは人生において何一つないと最近は言い切れる。

例えば、会社での決まりごとがあったとして、確かにそれは”have to”なのだけど、どんな理由であれ、そういう規範を持った会社に所属して規範を守ることを選んだのは他でもない自分であって、存在する全ての”have to”は自分の中の、あるいは自分で選び取った規範だ。

誰にも頼まれていないのに、自分で選んだ決まりごとに絡め取られて身動きがとれなくなる。つい最近まで、そんな風に生きてきた気がする。でも、どうしてそんな風になってしまったのだろうか。

さっきの私自身の規範の話を思い返してみれば、わたしの思考の中には常に”他人”が存在していた。

他人よりも、他人とは違う、他人と比較して、他人他人他人。

つまり他人ありきでないと自分の存在を見出せない、一番”自分のない”人間だったのだ。

大学3年生のとき、フランスに一年留学をしていた。出国の前、友達が送別会をしてくれたり、空港まで見送りに来てくれたりした。

わたしはみんなに、愛されていると思った。

しかし渡仏したばかりで友だちもできない中、寂しくてFacebookを開くと、楽しそうな写真がたくさんあがっていた。

インターネットはきゃりーぱみゅぱみゅという期待の新人に沸き立ち、日常が普通に回転していた。

ーーわたしがいてもいなくても、地球は回るのか。

今思えば恐ろしいほどのエゴなのだが、当時の私はエゴかどうかということよりも、その事実にただただ衝撃を受けて、打ちのめされた。

誰にも必要とされないなら、生きていてもいなくても一緒。

そんな風にさえ思った。そのときの経験がより一層、認められたい気持ちを強くした。唯一無二になろうと思った。これ以上の唯一無二になんて、一生なれないのに。

常に他人に囚われて生きるのは、苦しい。自分が主体的に生きられないからだ。自分の中に指標を持てず、人の顔色や動向を窺って、それに応じて”自分の意志とは無関係に”ポジションを取りに行く。そんなの不自由なこと、この上ない。だから、できることならそんな考え方は早々に捨ててしまったほうが楽だ。

周りの人はそんな様子を見ていて、辛そうだと思って声をかけるかもしれない。しかし、プレパラートの心を持った彼ら(かつての私)は扱い方が混みいっている。

こういう考え方の人に真正面から「それはエゴだからやめろ」と言う人がいるが、それは逆効果だということを私はよく知っている。

確かにエゴではあるのだけれど、同時に誰よりも他人に重きを置いている人間だ。他人から言われることを気にしないわけがない。

”私たち”にとって、この手の言葉は紛れもない暴力だ。たとえ優しさからの言葉だったとしても、である。

他人からド直球でぶち込まれる「エゴ」という真逆の言葉に真っ向から傷つき、これ以上傷つかまいとして、その人への心の扉を一生閉ざしてしまう。

逆に「そんな生き方、辛いからやめなよ」と言うのも効果がない。先にも述べたように、そういう人たちはものすごく規範意識が強いのだ。自分が決めた規範であっても完璧に守ろうとする。

だから「辛いからやめなよ」なんて「聖書に背け」と言われているようなもので、自らの決めた規範への敬虔な信者にとっては「ありがた迷惑な話」に聞こえることもある。良くて「ありがとう、でも大丈夫だから」と言うだろうし、最悪の場合、神経を逆なですることになりかねず、進言したほうからしてみれば、とんだ面倒に巻き込まれかねない。

私自身、今もこういう部分を完全には拭い去れていないので、書いていて「もううんざり」とか申し訳ない気持ちになるのだが、こればかりは仕方ないし、エゴだとかどうしようもないと言って一蹴してしまいたくもない。

自分に自信がなくて、人に認められたくて、求められたくて、必要とされたくて、愛されたいから特別になりたいという気持ち自体は、多かれ少なかれ誰にだってあるし、悪いものではないと思うからだ。

バカにされたってエゴだって言われたって、いや間違いなく滑稽だしエゴだし、どうしようもないけどどうしようもないから、ボコボコに殴って息の根を止めたつもりでも、数年後にふとした瞬間化けて出る厄介でしぶとい感情。

しかし自然に消えるならば、無いに越したほうがいい。それはそのほうが自由で楽に生きられるからだ。

では、どうしたらいいのか。

答えは簡単だ。

身近な人に徹底的に愛してもらったらいい。徹底的に、だ。

認められて求められて必要とされて愛されたらいい。それだけでは認めてくれる人のモノサシに依拠してしまうではないかと思われるかもしれないが問題はない。

他人に肯定されるうちに、自分の中に真の意味での自己愛が、モノサシが育ってくる。それはエゴではなく、もっと自由な、神様みたいな存在だ。自分が何をしてもどんな行いをしても許してくれる、あなたが選び取った選択をやさしく肯定してくれる自分だけの神様だ。

頑なだったわたしが変わったのは、今年の6月くらいのこと。開放してくれたのは、ある2人の人の言葉だった。

1人は「あなたはありのままでよく、特別なことをする必要は何もない」と言ってくれた。

もう1人は「あなたは面白いものを持っているから、ありのまま好きなように表現したらいい」と言ってくれた。

思うように表現してよい

何もする必要はない

帰結は真逆だった。しかし、「あなたはあなたのままでいい」という根底に敷かれた主張は同じだった。

2人とも何度も「でも」と言う私をたしなめて、肯定してくれた。何度も何度も大丈夫だと言ってくれた。その「大丈夫」には、過度な評価も、私が恐れてきた「みんな大したことがないからお前も大したことがない」というニュアンスもなかった。

もしかしたら嘘やお世辞も混じっていたのかもしれない。だけど、当時の私には無条件に自分を受け入れてくれる存在が必要だった。

それは今振り返れば、どんな自分をも受け入れるための、他者を介した訓練であったようにも思う。

無条件に自分を受け入れてくれる存在。そんな大事な部分を外に明け渡してはいけない。自分を認めてあげて、迷ったときに立ち戻る絶対的な指標はいつも、自分自身の中に置いておいたほうがいい。

しかし、他者に重きを置いている以上、一度は大事な誰かに徹底的に承認してもらう必要がある。

「あなたはあなたのままでいい」

外側から何度も何度もそう説かれながら、私は心の中の冷えたしこりが溶け出てくるのを感じた。

あたたかいと思った。こんな風に自由に生きていいんだと思った。

他人よりも誰よりも何よりも私が一番個性的である代替不可能な唯一無二な存在でなければならない、さもなくば存在価値などない

そんな気持ちは排水溝の上で溶けて排水管の中に消えた。

凍ってしまって機能しなかった「真の自己愛」がゆっくりと動き出すのが、わかった。

自分の存在価値との葛藤がなければ、表現は死ぬと思っていたけれど、実際にはそんなことはなかった。

むしろ誰とも比較しないほうが、思う存分に自分の表現ができているように思う。

もう他人の存在を気にせずに生きていい

一生自分に付き合い続けなければならないから、最終的にはそう決めるのは自分自身である必要はある。

しかし、そう思わせてくれるきっかけをくれるのは、頑なでマッチョな心を溶かすのは、逆説的でありながら、他人からの承認と愛なのだ。

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