見出し画像

他人によって自分の人生が更新されていく。平成元年生まれが辿ったFacebookの歴史と思うこと。

Facebook を更新しなくなった。半年ぐらい更新していない。同世代の友だちの中には年単位でFacebookで見かけない者もいる。

投稿するのはいつも決まった人。
同世代で投稿されるのは、転職・結婚・出産の報告。

「○○さんが○○さんの写真にタグ付けされました」

と結婚式の写真にタグ付けされているのをみて、予期せぬ生存確認をする。変わってないけど大人になったなと懐かしむ。

ふと友だちの個人ページに飛ぶと、「友達○人が◯◯さんののタイムラインに誕生日のメッセージを投稿しました。」の投稿が数年分。

本人はお祝いメッセージに対する返信は、していない。お祝いの言葉が宙ぶらりんに並ぶ。

あと3ヶ月で平成は終わる。平成元年生まれの29歳が今、Facebookに思うことを書いてみる。

私がFacebookに登録したのは、2011年2月、20歳のときだった。

大学のプログラムで韓国にいった。韓国の学生とグループワークをする中で「Facebookで友だちになろうよ!」と言われた。

寝泊まりしていた大学の寮の一室でアカウントをつくった。同室の日本人の友だちは、既にアカウントをもっていた。以前短期留学したときにアカウントをつくったそうだ。

その3週間後に東日本大震災がおきた。韓国人の友だちから心配の声をFacebook
経由でたくさんもらった。

震災の2日後にはまた大学の授業で台湾に飛んだ(都内から成田空港に行くのはかなり大変だった)。台湾で知り合った学生ともFacebookで友だちになった。

それ以降は、高校時代に全盛期だったmixiのように日常的なことを投稿したり、今でいうLINEのアルバムみたいに旅行や飲み会、ゼミ合宿の写真がFacebook上にストックされていった。

余談だが、mixiは高校3年生のときに友だちに招待してもらった。あの頃のmixiは自分で登録できなくて、既にmixiを使っている人からの招待が必要だった。懐かしい。

大学受験の年だったので「勉強に集中するためmixi3日間ログインしない!」と宣言した友人のプロフィール画面を見ると「ログイン1時間以内」と表示されていることが多々あって笑った。懐かしい。

私はそのあと浪人したが、現役で大学に進んだ友人たちがサークルや飲み会にあけくれている様子をmixiで垣間見て、「大学にいったんだから勉強しろよ」とくだをまくこともあった。

晴れて大学に入学し、大学1年生ごろまではmixiで友だちになるという習慣はあったので、mixiを使っていたのは3年弱ぐらい。意外と短い。

話をFacebookに戻そう。Facebookには、日常的なことも投稿するし、誕生日だったり、卒業だったり人生の節目をきっかけに投稿することもある。

インターンをしていた会社の広報をかねて、意識の高い投稿をすることもあった。読書メーターと連携させて、自分の興味をアピールしたりもした。

(「意識の高い」という言葉は、本来の意味とは違ってネガティブなイメージをもっているが、平成に生まれた言葉と感覚なのであえて使ってみる)

大学を卒業したときには投稿した。

会社で関わっているプロジェクトについても投稿した。

名刺交換するように仕事経由で知り合った人が友だちに追加される。

行ったイベントの感想を書いた。

結婚したことは投稿しなかった。

海外に引っ越したことも投稿しなかった。

Facebookに投稿する意味がなくなった。

Facebookは投稿しても前ほど読まれない。

Facebookの友だちは名刺の束みたいに感じる。

Facebookは投稿する人が決まっていて同世代は投稿しない。そんな場所で自分だけプライベートをさらすのはカッコ悪い。

Facebookは自分の人生の記録だった。

今、その役割はInstagramにある。ものすごくプライベートなことや愚痴は、仲の良い友だちだけのTwitterの鍵垢の中。

TwitterもInstagramもフォローする人は選べる。仲の良い友達に、マネしたいモデル、買う服を探すためのファッションブランド。

知っても知らなくてもどうでもいい他人のプライベートではなく、フィードに流れるのは自分の好きなものだけ。

Facebookは仕事で使うからアカウントは消せない。

自分のフィードは、自分が投稿したものではなく、タグ付けされた投稿、写真が並ぶ。

Facebookでは、他人によって自分の人生が更新されていく。

それが平成元年に生まれた私のFacebookの今。みなさんはどうですか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?