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つらい仕事を乗り切る歌: MLAと日常 【居心地の悪い本土主義: My Little Airport私論②】

香港のインディーズバンド、My Little Airport(以下MLA)。今風の若者の悩みを切り取る彼らの歌詞のテーマは、むりやり単純化すればだいたい下のどれかに当てはまる気がする。

(1)またバカやった
(2)働きたくない
(3)旅に出たい
(4)文学みたいな恋したい
(5)香港つらい
(6)政府死ね

前の一人で吉野家を食べてたら親戚に見られた歌の場合は、(1)と(5)の間くらいだろう。

順番に解説するつもりはないんだけど、今回のテーマは(2)の労働。

MLAというバンドの出世作のひとつは、2009年のアルバム『モンパルナスとモンコックの間の詩情』(”介乎法國與旺角的詩意”)に収録された「仕事って誰の発明?」(”邊一個發明了返工*1”)だった。MLAは「働きたくない」という気持ちをストレートに歌った本作によって「香港の若者の仕事に対する嫌悪感」および「不動産覇権*2下の普通のサラリーマンの生活状況」を歌い上げ、彼らの名は「雷鳴のごとく轟く」香港インディー音楽ファンの間で支持を集めることになった。*3

邊一個發明了返工 我要給佢米田共
(仕事って誰の発明? そいつに米田共*くれてやる)
邊一個發明了返工 返到我愈來愈窮
(仕事って誰の発明? 働くほどに貧乏になる)
為了薪金一萬元 令每天都沒了沒完
(1万ドル1万ドル1万ドル** 毎日毎日いつ終わる)
一萬元一萬元一萬元 靈魂賣給了大財團
(1万ドル1万ドル1万ドル 魂も財閥に売り渡す)

*縦に並べると「糞」の字になる。
**1万香港ドル=14万くらい。

広東語で「打工仔」と呼ばれる勤め人の悲哀を歌った歌は、日本でも映画『ミスター・ブー』シリーズで知られる伝説的シンガー、サム・ホイ(許冠傑)の『半斤八兩』以来おなじみのテーマで、MLAの曲の中でも、他にもいくつかある。

個人的にその中でも群を抜いて好きなのが、2011年のアルバム『香港は大きなショッピングモール』(”香港是個大商場”)に収録された『シーシュポスの歌』(”西西弗斯之歌”)だ。

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馬券購入のコールセンターでのバイト、という、主人公曰く「引くほど退屈」なバイトの密かな楽しみを、歌っているのか喋っているのかわからない口語の歌詞でユーモラスに歌いあげている。どことなくArctic Monkeys風のギターサウンドもいい。

開閘前半分鐘
(レース開始30秒前に)
總有好急嘅客人
(必ずいる大慌ての客)
落注嘅時侯夾雜粗口
(罵り言葉をまじえた注文)
聽到我一舊雲
(のろのろする私)
但佢地愈係忟
(あっちがイライラするほど)
我就愈係斯文
(こっちはもっとお上品に)
我話「麻煩你重複一次」
(「もう一度お願いします」って)
搞到夠鐘開閘
(しているうちにゲートオープン)
佢哋就問候我屋企人
(すると家族へのご挨拶をいただく*)
佢鬧我正一懵撚
(このクソったれと罵られ)
話要叫個經理出嚟問
(責任者を呼べと言われる)
我都好有禮貌咁回應:
(そしたら私は礼儀正しく答える)
「先生,麻煩你等等」
(「お客様、少々お待ちください」)
我既緊張又興奮
(緊張しつつ興奮して)
同時又扮晒殷勤
(同時に真摯なふりもして)
喺呢個心情咁複雜嘅搏鬥裡面
(この複雑な心情の葛藤の中に)
我開始搵到工作嘅快感
(私は働く喜びを感じはじめた)

* お前の母ちゃんをチョメチョメ的な広東語の罵倒語を表す婉曲表現。

この独特なサボタージュ方法というか、あえてクレームを浴びることを楽しむ主人公の態度は、曲の続きの語りの中でギリシャ神話のシーシュポスに例えられる。

ギリシャ神話にこんな話がある。シーシュポスが神々の罰を受け、地獄で巨大な岩を運んで山を登り続ける話。山頂に着くと岩は自動的にふもとに戻り、彼は毎日この不毛な労働を続ける。永遠に。後にこんなことを言った人がいる。神々のシーシュポスへの罰は「岩を運ぶ」ことではなくある概念、すなわち「延々と岩を運ばされる私はなんて悲惨なのだ」という概念だったのだ、と。シーシュポスは自分の運命は変えられないことを知っていて、彼にできることは岩を運び続けることだけだった。ところがある日、彼は気がついた。自己の命運を軽んじることができる、この過程を楽しめば神々の彼に対する罰を否定することができる、と。だから彼は感じるようになった。自分は幸せなのだ、と。

後の人、とは『シーシュポスの神話』を書いたフランスの小説家アルベール・カミュのことだろう。作詞者の阿Pはなかなかのフランス語びいきのようで、MLAの曲にはフランス語が歌詞に使われた曲もあるから、フランス文学からの引用も不思議ではない。

この本は小説ではなくカミュが自身の「不条理」の哲学を理論的にまとめたエッセイで、一番最後にこのシーシュポスの寓話の独特な考察が試みられている。カミュは絵画の題材として一般に注目される岩を運んでいる最中の彼の苦悩ではなく、落ちてしまった岩を拾いに頂上から麓まで降りる最中の彼が何を考えているかに注目した。彼は自分の運命を嘆くこともできるけど、あえてそれを受け入れた上で「すべてよし」と喜ぶこともできるのではないか、それによって罰を与えた神々の存在を否定し、再び自分が命運の支配者になることができるのではないか、とカミュは考えたらしい。このエッセイは、こう結ばれている。

ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以降もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたち作る。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。(新潮文庫版、清水徹訳、p.217)

何やら難しいし、私自身わかったようなわからないようなのだけど、この歌のストーリーで考えると、生活のために仕方なくやっているバイトで理不尽なクレームを受けていた主人公は、わざとノロノロとやってクレームを誘うような態度を取ることによって、密かに仕事を楽しむようになった。シーシュポスが岩を運ぶのをやめることも岩がもう一度落ちてしまうのを防ぐことができないように、主人公は仕事をやめることもクレーマーに反撃することもできないけど、クレームを楽しんでしまえばいいのだ、という「抵抗の方法を思いついた」(”我諗到一個方法抗衡”)のだった。

この歌のカミュ解釈が正しいのかはわからないけど、カミュ自身「こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ」(p.213)とも書いているから、香港の労働者の気持ちを歌ったこの歌が彼の思想を引用してるのはきっとうれしいんじゃなかろうか。

それにしてもこのシーシュポスの運命が、そして「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分」というカミュの言葉が、この歌の主人公だけでなく、香港そのものの運命と、その中で諦めず民主を求める人々の姿にどこか重なって見えてしまうのは私だけだろうか。

【居心地の悪い本土主義: My Little Airport私論】
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*1 「返工」は仕事に行く、出勤することを意味することを意味する広東語。標準語の「上班」にあたる。
*2 "地產霸權":不動産会社、デベロッパーが独占的な影響力をもつ香港経済の現状を揶揄する言葉。
*3 梁偉詩『詞場:後九七香港流行歌詞論述』匯智出版、2015年、p.204


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