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★子どもに不適応な学校システム

子どもが不登校になるのは、子どもが学校に不適応を起こしているのでは無く、今の学校システムが、子どもに不適応だからであると感じています。


「学校は先生が子どもに勉強を教える場所」日本人なら誰でも知っている神話が、今崩れようとしている。子どもたちが学校から去り始めている。

学力重視の日本の教育機構。その中にすっかり組み込まれて歯車と化した教師、原動力となる親の期待。今の学校は、正に秀才製造機と呼ぶにふさわしいマシーンでる。機械に入れられた子どもという素材は、まず個性と自由をそぎ落とされる。豊かな発想を摘み取られる。そして、集団の中に放り込まれて、いかに自分を殺して生活するか、身をもって叩き込まれる。さらに、役に立たたず、おもしろくもない各種の知識を短時間で頭に詰め込まれる。こうしてでき上がった製品は、みんな同じ形をした、「組織の歯車」という優秀な規格品である。これを別名エリートと呼ぶ。

また、機械では必ず、途中ではじかれてしまったり規格に合わなかったりした不良品が出る。それが不良少年、あるいは不登校児と呼ばれる子どもたちである。

果たして、教育は機械であってよいのだろうか。集団に合わせられない子どもたちを社会の不良品として片付けてしまってよいのだろうか。文部省(現、文部科学省)は今頃になって、ようやく不登校児の存在に目を向け始めた。その数が、昨今激増して、もはや無視できなくなったのであろうか。あまりのお粗末さに呆れ果ててしまう。

所詮、文部官僚も教育委員会の役人も学校の先生も教育マシーンが作り出した「規格品の歯車」である。それなりのエリートである。そんな人たちには、不良品のレッテルを貼られてしまう子どもたちの気持ちは分からないのだろうか。優秀な教育者の皆さん、どんなに頑張っても努力してもエリートになれない子どもたち心の叫びが聞こえませんか?


これは、私が20年前、若手教師だった頃に書いた文章です。不登校を巡る学校の立場、教師の意識は20年前と今とでさほど変わっていないと感じます。文科省はようやく、中学校を卒業していても夜間中学校で学び直しができること、学校以外のフリースクールでも出席を認めることを決めました。しかし、地域の学校に在籍することというルールは頑なに守ろうとしています。

「学校に行かない」と言う選択肢は、社会的に必ずしも認められているとは言えません。多様な学びを認める体制はまだ不十分です。一流ではない、中途半端なエリート意識をもった教師が、学校に適応できない子どもを、無理矢理、昔、秀才であった自分が経験してきた型にはめようとする時代錯誤な教育も変わっていません。

先日、勤務校で職場体験学習がありました。うちの区では5日間の体験をすることになっています。私が担当したスパーマーケットに、学校には、ほぼ毎日遅刻してくる、勉強には全く意欲を示さないゲーム好きな男子生徒がいました。体験前には、遅刻しないで5日間通えるのか、学年教員は皆心配しました。しかし、それば杞憂に終わりました。

私が巡回でそのスーパーに行ったとき、彼は、学校では見たこともない生き生きとした表情で、飲料水のペットボトルの品出しをしていました。同じ職場の生徒に聞いたら、「彼は毎日一番乗りで職場に来ています」と言っていました。彼は、「仕事の方が勉強より楽しいです!」とまた仕事に戻っていきました。

勉強に向かない生徒は、早めに働く経験をさせる等、多様な生徒に合った、多様な学び方ができる教育システムを早急につくる必要があると感じます。

学校教育には矛盾がいっぱい!