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★国語科教師の本分

国語科教育とは何か?私は、大学卒業以来30年間、国語教師として国語を子どもたちに教えてきた。国語を英語に翻訳するとjapanese。つまりは、中学生に30年間、日本語の授業をしてきたのである。

そして、今もって、「国語の授業は、他の教科に比べて、指導法があいまいで、教師の力量(教え方の善し悪し)に左右される」教科だなと感じる。数学や英語、理科、社会は、教師が変わっても指導法が180度違うということは起きない、と思う。でも、国語にはある。もちろん、教え方のうまい先生では理解が進み、そうでないと理解度が下がるということは他の教科でも起きる。

私は、初対面の人に会うと「子どもの頃、国語の授業は好きでしたか?」と聞いてみることにしている。そこで分かったことがある。「国語は好きではなかった」と答える人の理由の中に「教え方の上手くない教師」から、「つまらない国語の授業」を受けてしまったのではないかと思われる節があることである。つまり、ハズレ国語教師のせいで国語嫌いになってしまった人がかなりいるのではないかと疑われるのでる。

国語の教科書には中1なら「少年の日の思い出」ヘルマン=ヘッセ。中2なら「走れメロス」太宰治。中3なら「故郷」魯迅、と、教科書会社が違っても共通で載っている教材文がある。これらの教材は、私が中学生だった40年前から変わっていない。それだけ味わい深い文章だから掲載され続けていると言えなくも無いが、中学生には難解で難しい文章だという印象を与える可能性がある。

だからなおさら、教師の教え方、授業としての料理の仕方が問われる教材文でもある。これらの教材文については、過去の研究授業は星の数ほど行われており、ちょっと検索して教材研究すれば、「つまらない授業」と評価される授業にはならないのではないかと思う。

先日、あるベテラン教師(60歳代)の授業を参観する機会があった。教材はペンギンの防寒対策を書いた説明文である。教科書には教材の学習目標として、読み方を学ぼう「説明文の基本構造」とある。肝心の授業の中身は、生き物としてのペンギンの説明に終始していた。国語と言うより理科(生物)の授業。途中、生徒から振られた「ペンギンに関する質問」に、教師はフランクに応対していたので、生徒は「つまらない授業」とは認識していないかもしれない。

しかし、私の目には「国語(日本語)の授業として、何を指導しているのかが分からない授業」だと映った。説明文の構造としての序論、本論、結論の関係や、説明の手法としてのナンバリングやラベリングには全く触れられていなかったからである。国語科を教えていない国語の授業(文章の内容しか扱わない授業)は、ごく普通に行われている。

しかし、これは、私が国語科を専門とする教師だから見えたことであって、他の教科を専門とする先生方には見えにくいのかもしれないと感じる。それが、学校管理職や指導主事であっても。

国語科は教材の意味や内容を教える教科ではない。教材を通して、日本語の構造や奥深さを教える教科である。そこを押さえていない国語教師は、令和の時代になった今でもかなりいるのではないかと危惧される。それは、特に、昭和の時代に授業を受け、大学で教育法を学んで教師になったベテラン層に多いのではないかと推察される。

教師は落語家に似ている。落語家は、師匠に稽古をつけてもらって、舞台を踏み、芸を磨き、前座から二つ目、そして真打ちにと昇進する。しかし、教師の世界では、客(児童、生徒)の評価がストレートに教師まで届きにくく、芸は前座、二つ目レベルであるのに真打ちの顔をして高座(教壇)に上がる輩がいる。残念なことだが現実である。

芸を磨き、真打ちを目指そうとする気概のある若手教師を育てていかねばならないなと思う。

学校教育には矛盾がいっぱい!