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★教員採用試験の倍率が下がるということ

団塊世代の大量退職期に伴って、10年ほど前から大都市圏では新規教員の採用数が増加している。東京都の小学校全科で見ると、毎年1300人前後の採用数で、応募者数に対する採用者数倍率は3から4倍で推移している。30年前は約10倍。比べるまでもなく低倍率である。東京都では、教師養成塾と称して優秀な教員志望者を大学4年生から青田買いする施作を実施しているが、焼け石に水である。

教員採用試験の倍率が下がるということは、教員の質が下がるということを意味している。昨今、新規に設立された大学には教員養成系学部がある場合が多い。少子化が進んでいるのに教員養成学部が増えているということは、一昔前なら、教師になるのを諦めていた学生でも教師を目指せるようになったことを表している。夢が叶いやすくなったのだから良いではないかと簡単に片付けるわけにはいかない。教師になるためには、一定の学力水準が必要である。学習指導力は言うまでもなく、子どもに対する、観察力、洞察力、カウンセリング力等高い見識が不可欠である。

教員採用試験の倍率が下がったことにより、残念ながら新規採用教員の質が低下しているのではないかと感じることがある。それは、対子ども、保護者とのトラブル、学級崩壊、離職率の増加として現れている。

私が教師になった30年前は若い先生は若いというだけで生徒に人気があった。年が近いということは自ずと親近感が増すのである。しかし、最近は若い先生が必ずしも好かれない。場合によっては嫌われる。原因は必要以上に虚勢を張って、子供の前で威張ってしまうから。威張るという行為の裏には自信のなさがある。人は、自信のなさを隠すために威張るのである。これも、若手教師の能力低下が原因かもしれない。

教師という仕事は一般行政系公務員のそれとは違うと、私は考えている。教師の仕事は職人や芸人に近い。一番似てるなと思うのは落語家である。入門(採用される)したからといって一人前の噺家(教師)になれるわけではない。修行を続け、前座、二つ目と昇進し、10年目を過ぎたあたりで、ようやく真打ち(生徒に信頼される一人前の教師)になれるのである。真打ちになってからも芸の鍛錬(人を育てる話術のスキルアップ)には死ぬまで終わりがない。

しかし、最近の若手教師を見ていると、職人教師はごくわずかで、サラリーマン教師が多い。教師になったら家と学校を往復するのみ。研修は学校で指定される官制研修のみ。教育についての本も読まない。

最近こんなことがあった。20代後半の生徒指導担当教師Aが、学年朝礼で学校生活について講話していた。内容は至極真っ当なのだが、生徒は聞くフリをして、聞いていない。でも、教師Aは話し続ける。休み時間に、Aに生徒指導関係の本を渡してみた。すると、翌日にその本は、「ありがとうございました」と付箋が貼られて、私の机上に戻ってきた。Aが本を読んでいないのは明らか。「自分は教師として完成されている。余計なお世話だ。」くらいに考えているのだろうか。自分が20代後半だった頃を考えると、とても、そんな自信はなかった。最近の若手教師が教師の仕事に対してもっている「根拠のない自信」はどこで身につけたのだろうか。自信をもつことは良いことだが、謙虚さを失った時点で、その教師の成長は止まる。

2011年から約6年間、延60回実施した「明日の教室東京分校」という教師の勉強会には毎回関東一円にとどまらず、遠くは、仙台、名古屋、長野からも向上心の高い教師が集まっていた。講座が終わった後も、講師を交えて熱い教育談義が繰り広げられていた。学ぶ職人教師と学ばないサラリーマン教師。残念ながら、数は後者の方が圧倒的に多い。「学ぶことは楽しい」と経験的に実感している教師にしか子どもが感動するような授業はできない。

保護者会で是非、「先生は、今、どんなことを学ばれていますか?」と質問してほしい。具体的な回答が、即座に口をつく教師は間違いなく良い教師である。

学校教育には矛盾がいっぱい!