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★教育という営み

「校長のパワハラと闘っています」と人に話すと、「とてもアグレッシブな方ですね」「パワフルですね」という反応が返ってくることが多い。

しかし、私自身は、人よりアグレッシブであるとか、パワフルであるという自覚はまったく無い。というか、元気なときも、たまにあるが、落ち込むことも多い。ごく普通の人間である。

ではなぜ、校長のパワハラと闘うのか?というと、「許せないから」である。

それは、自分に対してパワハラしてくる校長が許せないのではなく、子供をそっちのけでパワハラにいそしんでいる校長の思考が許せないのである。

その違いを、周りの人に分かってもらうのが非常に難しい。

迷惑を被るのが、私一人であったら、我慢すればすむ。そもそも、パワハラをするような賢くない校長に、あえて意見するというエネルギーを消耗する行為をわざわざ選択することはしない。スルーします。多分。

だから、私が一般の会社員であったら、パワハラ上司にたてつくことはせず、転職する道を選ぶのではないかと思う。多分。

当たり前だが、学校というのは、子供が主役である。大人を代表する教師が、学問や生き方など様々なこと教えつつ、子供を大人にする場所である。そして、子供は、未来の社会を担っていく人財(宝)である。だから、学校で行われいる「教育」という営みは、企業がモノを作って販売するという「商売」とは一線を画す神聖な営みだと考えている。どちらが上で、どちらが下という比較の問題ではない。念のため。

そういう、神聖な営みが行われる学校という場で、子供が適切な教育を受ける権利も顧みず、「パワハラ」などという、まことに自己中で下世話な行為に邁進している校長が許せないのである。「あなたは何のために教師になったのか?子供たちのために、パワハラよりも、もっと優先することがあるでしょう?」と言いたくなる。

イジメを放置し、子供を死に追いやった教育委員会のニュースに胸が痛む。残念ながら、指導主事のレベルも、この30年で、かなり下がっていると感じる。だから、同じことが場所を変えて繰り返される。

全教師、教育委員会で働く全指導主事は、「教育」という営みとは何かについて、今一度考えてみてほしい。

学校教育には矛盾がいっぱい!