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人魚姫の歌声


 深夜から振り続けていた雨が上がった。長い雨の夢から醒めた世界は、いつも通り動き始める。猫背の研修医が軽く会釈するのに合わせて、私も頭を下げた。

 この場所に来るのは27回目。真っ白な天井、壁、廊下。余分なものを全て取り除いた、完璧な〝牢獄〟。窓先に見える海は、秋を通り越して冬の色をしていた。深い深い青。何もかもを拒絶するように荒ぶる波。横目で海を捉えながら、私は廊下を進む。

 小さく聴こえるクラシック。これはバッハだろうか。波音と共に耳に届くピアノが、この牢獄にはとても似合っていて皮肉だった。きっと、あの猫背の研修医もそう思っているに違いない。だって3ヶ月前の彼の背中は、もっと伸びていたのだから。

 407号室のドアは、他の病室のドアより真っ白だった。昨年、とうとう狂ってしまった患者が破壊したから塗り直したらしい。 よくあるのよね、なんて看護師長が苦笑いを浮かべていた。私はただ、そうですね、と頷くことしかできなかった。あまりにも日常的に行われる〝代償行為〟を、ここでは容認することしかできない。いつものように、ノイズ混じりの波音とバッハと共に。

 4度ノックを鳴らす。いつものように応えはない。私はそのままドアを開けた。少し広めの個室には、固いカーテンの先にあるベッドとベッドから見える窓先の海だけ。真っ白の空間に映える海は、一枚の絵画のように色付いていた。ベッドで上体を起こし、ひとり海を眺める女性。真っ白な室内着に、痛々しく巻かれた首の包帯。彼女の陶器のような白い肌によく似合っていた。皮肉ではなく、本当に、よく似合っていた。

「こんにちは、×××さん」

ベッド脇に置かれた椅子に腰掛けて、私は脚を組む。ゆらり、振り向いた彼女は柔らかく微笑んだ。鞄から取り出した紙とボールペンを彼女の手元に置く。私が選ぶことの無い、オレンジ色のボールペンを、彼女はいたく気に入っていた。

「今日は少し冷えますね。体調は如何ですか?」

 室内に響く私の声。波音とバッハに消されてしまわないように、出来るだけ穏やかに強く発した。彼女は私から目を逸らすと、オレンジ色のボールペンを両手で弄り始める。にこにこと微笑みながら、時にその両眼でボールペンを強く見つめた。


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彼女と出逢ったのは、3ヶ月前の夕刻。知り合いの同業者に連れられて此処に訪れた時。同業者は酷く痛々しい表情のまま、無言でこの病室へと私を連れてきた。ただ一言、〝私では無理だった〟と、笑みとも泣き顔とも取れない表情で呟いた。まるで懺悔のように。

 彼女は17歳。色素の薄い髪と、陶器のような白い肌と、空洞のような黒い瞳。いつもにこにこと微笑みながら、それでも決して言葉を発することはない。失声症。それが彼女の自己防衛だった。

 繰り返される身体への暴力と、精神への暴行。最後にはあっさりと彼女は親に捨てられた。そして彼女は首を切り、暴れ、狂い、声を失い、親に求められてきた笑顔だけをその顔に貼り付けたまま、此処で息をしている。否、〝息だけをしている〟。

 私に委ねられたのは、彼女の声を取り戻すこと。けれど、私は断った。無意識に彼女が選んだ自己防衛を壊すことなど、私には出来ない。声を取り戻して何になる? 彼女の全てだった親は、彼女を置き去りにしたのだ。彼女の望む返事は、もう二度と出来ない。もう二度と傷付くことはなくとも、もう二度と戻れないのだ。私のやり方で彼女と話をさせてくれ、そうでないなら他の人に頼んでくれ。そう強く睨みつけると、同業者は漸く頷いた。

 それからは時間の取れる限り、私は此処へ脚を運んでいる。最近になって彼女は私の方を振り向いてくれるようになった。オレンジ色のボールペンを彼女との会話に使いたいと思ったのは、初めてこの病室で彼女と会った日に、海に沈む夕焼けを一緒に見たから。その時に初めて、空洞のような黒い瞳が、オレンジに色付いたから。そう在って欲しいという、私の願いと祈りとエゴの色。それを彼女も気に入ってくれたようだった。

「今日は美術館のお話でもしましょうか。とても綺麗な場所を見つけたんですよ」

 鞄から取り出した数枚の紙。彼女が気に入ってくれそうな美術館のホームページと、様々な写真をプリントアウトしてきたもの。私はそれをベッドの上に並べながら、彼女の瞳の動きを見る。声が出ない分、彼女の瞳の動きで感情を読む。どれが気に入るのか、どれが嫌いなのか、どれが好きなのか。オレンジ色のボールペン以上に彼女の瞳が動くものを、私はずっと探している。

ちらり、瞳が流れる。ボールペンから流れた視線を目で追いながら、私は一枚の写真がプリントされた紙を手にした。

「やっぱり海が好きなのですね」

 海の近くにある、綺麗な美術館。海と共に撮られたその写真から、彼女の瞳が動かない。

「いつか私と行きませんか。絵画ではなく、この海を見に」

 瞬間、彼女の手が動いた。ぴくり、痙攣のような動き。それを見て、私は続ける。

「今はまだ早いけれど、もう少し寒くなると美術館がイルミネーションで飾られて、とても綺麗なんです。きっと、海と一緒に見たら×××さんも気に入ってくれると思うんですよ」

 興味、関心、感動、嫌悪、好意、不安、恐怖、畏怖。それらが混ざりあった、深い深い黒。傷付ける者が消えても、彼女の心には永遠に残る血が滲む傷跡。それを癒すことが出来るのは、他でもない彼女だけだ。あの猫背の研修医もそれが嫌という程に理解出来たのだろう。私たち〝他人〟に出来るのは、救うことじゃない。〝掬うこと〟だけだと。

「今年じゃなくてもいい。来年でも、再来年でも。それまではお散歩して海を見たりして、脚に力を付けて。そうしたらきっと、」

 きっと、一緒に。そう言った私の顔を見上げて、彼女は笑いながら涙を流した。この表情の変化は2度目。2度目だ。きっと、これからもっと感情が無意識に溢れ出てくる。きっと、きっと。


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 生きるか死ぬかを決めるのは、私じゃない。それでも〝生きて欲しい〟と願うのは、〝幸せになって欲しい〟と願うのは、決してエゴだけじゃない。偶然と必然が、何重にも折り重なって私は此処へ来て、彼女も此処へ辿り着いた。それ以上、理由が必要だというのなら、いくらでもこじつけて構わない。

 声を失うほどの痛みと、微笑むことしか許さない呪いと、動かない脚と。それでも彼女の心臓は動き、無意識に息をしている。海の見えるこの真っ白な牢獄で、彼女はまだ〝生かされている〟。それでも。

「今度は、オレンジ色のメモ帳も持ってきますよ。きっと気に入ってくれるもの、探してきますから」

 私の言葉で、眼が、指が、顔が、動くのだ。まだ〝生きている〟と強く訴えるのだ。真っ白な牢獄で、海を見つめるだけのひとりの女の子。痛みに耐え、無意識に自分を護り、海へ還ることを望み続けている。

 それはどの絵画より美しく彩られる、波間に響く人魚の歌声のように。








#同じテーマで小説を書こう 〝人魚姫の歌声〟

https://note.mu/saya_diary_life

戸崎 佐耶佳さんのテーマをお借りしました。







 

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