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Paraphilia 〝深夜〟


私が尊敬する先生は、言葉の組み合わせが素敵な人だった。


「忘れていくものはそのままで、忘れられないものは夜の月のようにそこにあるものよ」


流れるように言葉を紡ぐ人だった。 川辺に咲く白い花のように、ただそこにあるような。 いつまでも変わらず風に揺られているような。 悲哀も憐憫も恐怖も憧憬も、全て抱き締めてくれるような、そんな人だった。 いつも持ち歩いているイギリス作家の詩集に、押し花の栞を挟んで。 高潔な清廉さを持った、妙齢の婦人。 私の好きなものを教えてくれた人。



「あんなところで何してたの?」

綾子が言う。 薄暗いバーカウンターの隅。 彼女の逃げ場所のひとつ。 お酒の強い彼女はウイスキーグラスを傾ける。 一時間前の彼女からは想像出来ないほどの愉しそうな強気な眼。 迷子になっていただけだよ、と伝えると彼女は豪快に笑う。

「迷子! いいね、迷子! 私もなりたいわ」

カラカラと鳴るウイスキーグラスの氷。 彼女のしなやかな手がグラスの水滴を撫でた。 汚れたフレアスカートもピンクベージュのパンプスも、今の彼女にはかけ離れた理想の姿だったのだろう。 化粧を直し着替えを済ませた今の彼女は、夜が似合う女だった。


「ここまで関わったんだから付き合ってよ」

私がぶん投げた携帯電話を一瞥し、立ち上がった彼女は笑いながらそう言った。 とりあえずホテルに帰りたい、と伝えると、じゃあ一時間後に此処に来て、と渡された名刺はシンプルなデザインに英字で綴られたお店の名前。 じゃあよろしく、と片手を挙げて、彼女はスタスタと歩き去る。 ドロドロの化粧も汚れた服も、なにひとつ気にすることなく堂々と歩く彼女の背中に哀しみは映らなかった。


暫しの、無言。

綾子の横顔は、何かを話そうとして止めることを繰り返しているように見えた。 私はその横顔を見ないふりして甘いお酒を喉に通す。 お子様な私の舌は苦いものを拒絶する。 ウイスキーやスコッチ、焼酎に日本酒、ビールにワイン。 それらのお酒に挑戦したことはあれど、美味しさを感じることはできない。 私も彼女のようにウイスキーグラスを傾けてみたい。 そんな夢を描いてみる。 夜に生きる女性は好きだ。 自分の武器を理解しているから。 夜に生きる男性も好きだ。 甘い言葉を熟知しているから。 どちらも勉強になる。


「あー………うん、うん」

綾子が呻く。 眉間の辺りを綺麗な指で軽く押さえて、ひとり頷く。 私は特に促すこともなく、カウンターに並ぶお酒を見る。 上品なお店だと思う。 残念ながらバーに来たことは数回程度で、全て仕事の付き合いや友人のお供。 上品なのか下品なのかはよく分からない。 けれど、このお店は居心地がいい。 逃げ場所に選んだ彼女のセンスは抜群のようだ。


「いいや、うん。 あんた賢そうだし、ちょっと私の話に付き合ってよ」

照れたようにはにかみながら彼女が言う。 彼女なりの頼り方なのか、お誘いなのか、甘え方なのか。 猫目に揺れる長い睫毛がとても心に刺さる。 真っ直ぐに私の目を見る綺麗な猫目に、私は笑顔で頷く。 

純粋に綾子の話を聞きたくなった。 恐らく、出逢いからして私の心は揺さぶられていたのだ。 地面に倒れ伏して泣く女。 まるで中島みゆきの歌詞のような女。 そんな女が見ている世界を私も少しだけ見てみたくなったのだ。 彼女には 物好きな女 と言われてしまったけれど。

「そうねー…最初から話そうかな」

ひと言呟くように言って、綾子はグラスを傾けた。



綾子は所謂 〝愛人の子供〟 だった。

 父親はよく分からない怪しい仕事をしていて、愛人だった母親は高級クラブのホステス。 夜の街で出会った二人は短い時間で愛を育み、綾子は産まれた。 その愛を永遠にしたかったのか、はたまた、一時の夢にしたかったのかは分からないが、当然のように二人は離れ離れになる。 母親は次第に病んでいき、幼い綾子は母親の怒りと哀しみの捌け口として扱われた。

愛された記憶なんてないね、と吐き捨てるように綾子が言う。 殴られ蹴られ罵倒される毎日は、綾子にとって奈落の底だった。 なにをすればいいのか、どうやって存在していれば優しくしてもらえるのか、綾子はそういった 〝媚びるための生き方〟を母親から学んだ。 最初こそ逃げることも考えたが、逃げたら母親に愛してもらえなくなる。 それが怖くて逃げられなかった。 綾子の心と身体に〝愛とは暴力〟という歪な傷がいくつも刻みつけられていく。 それを信じる愚かさも、己の醜さもよく分かっているはずなのに、抗うことはできなかった。


「今でも夢に見るんだよ。彼女が泣き喚く夢。 あの人はどこ、あの人はどこって」

苦笑いを零して、綾子が片手を挙げる。 ほんの数秒で運ばれた新しいウイスキーグラス。 しなやかな指で傾けながら、綾子が続ける。


愛されていないことはよく知っていた。 痛いほど理解していた。 けれど、母親は綾子を離さなかった。 いや、離せなかった。 綾子には愛する人の面影が嫌というほど残っているから。 殴られようが蹴られようが、熱かろうが冷たかろうが、綾子には関係なかった。 それら全て愛だと盲信して、受け入れ続けた。 歪な愛情、壊れた母親、痛む身体に醜い自分。 愛とはなにか? と聞かれたら、綾子は答える。 〝私の身体そのもの〟だと。


「間違ってるって、そんな訳ないって知ってるよ。 でも仕方ないじゃん。 それしか知らないもん」

私は頷く。 それが間違いだと言うのなら、正しさで訂正しなければいけない。 私にはそれができない。 なにひとつ、正しさなど持っていないから。 綾子を形成する〝愛〟に対抗できるような、綾子の存在する理由を否定できるような言葉が、頭にも心にもどこを探したって見つからないから。


「だからさ、アレを見た時には参ったよね」

綾子が小学校高学年に上がる歳の頃。 母親に追い出された部屋から歩いて数分の公園で一人、綾子は地面に絵を描いていた。 なんの絵かは分からない。 理想の家族だったのか、笑顔の母親だったのか、あるいはいつか夢見た可愛い犬だったのか。 18時のチャイムが鳴る。 それと同時に綾子の心を不安が包む。

 

あれ、今、お母さんが呼んでる 。


そんなよく分からない不思議な言葉が、綾子の頭に浮かんだ。

立ち上がり、駆け出す。 母親の待つ家。 いつも通り帰っても優しい笑顔は見られない。 自分は空気のように息をしているしかない。 でも、そこには確かに大好きな母親がいる。 綾子にはそれで充分だった。 だって、そこには確かに愛があった。 母親から与えられる痛いほどの愛情が、幼い綾子には大切な〝宝物〟だった。


「まぁ、簡単に言えば死んでたよね」

カラッとした晴天のように、清々しさすら感じられる言葉で綾子が言う。微笑みは崩さない、崩せない。 そこに綾子の強かさを感じる。 チラリ、横目で私を見て綾子が笑った。

「そこからはさ、なんとなく分かるじゃん?」

淋しさも悲しみも全て押し殺して、綾子の猫目が嗤う。 幼い綾子は施設へ移され、そこでも手酷い傷を負ったのだろう。 愛を失くした少女にとって、それは地獄と呼ぶには易しすぎる。 永遠に火炙りにかけられるような、永遠に死ねずに鋭い刃で貫かれ続けるような、まさしく拷問の日々だっただろう。私には察することすらできない。ありふれた言葉を紡ぐことを、私の心が拒絶した。


「…まだ聞く?」

ほんの少し淋しそうに、綾子が問う。 私の心を覗いているような、私の強さを測っているような、そんな目。 捜していたのだろうか、自分の言葉を聞いてくれる人を。 自分の醜さを受け止めてくれる人を。 私は頷く。 しっかりと彼女の目を見つめ返して。


でもその前に御手洗に行きたいな。お腹がちゃぽちゃぽする。


そう私が答えると、綾子は店内に響き渡る声で笑った。




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