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Paraphilia 〝朝〟


尊敬する先生はいつも微笑んでいる方だった。


「怒ることがね、得意ではないのよ。自分の事に関しては怒りたくはないの。」


心を不要に動かせない、動かしたくない、動かされたくないのだ。 自分は自分の思うように、感情を動かしていたい。 似ている。 決して自分が特別だなどと思っているわけではない。 ただ、まるで合わせ鏡のように似ている人がいることが、私にはとても嬉しかった。




雨の音がした。


夜の新宿、歌舞伎町の雑踏は遠く。 優しさが降り続く、憧れを遠くへ追いやって。 夜の街は生きている、そう強く感じる街を包み込む雨。 三杯目のウイスキーグラス。 二杯目の甘いカクテルグラス。 同時に傾けるとまるで共鳴するかのように、氷が音を奏でた。

綾子は16歳で施設を出た。 幼い子供が拗ねて家出するような軽やかさで。 一番好きな洋服を着て、一番好きなお菓子を小さなビニール袋に入れて。 大好きな母親の真っ赤な口紅だけ手にして。 当時、自分を愛してくれた年上の男の部屋に転がり込んだ。 どうなっても今よりはマシだろうと思った、そう綾子が笑う。


「現実なんて、そんなもんよ。」

雨の音と流れる音楽。 綾子の言葉はそれら全てを侮蔑するように吐き捨てられる。 男は27歳の普通の男だった。 優しくて淡白で、自分以外の全てを見下しているくせに、独占したがるような、そんな男だった。 魅力的な部分なんてどこにもない。 それが凌子には酷く魅力的に見えた。 だから選んだ。 綾子が初めて自分から選んだ〝人間〟だった。

三日、六日、十二日。 幸せが続く。

ただ優しく愛でられる毎日は綾子にとって今までにない生活だった。 不思議と違和感はない。 ああ、これが〝普通の暮らし〟なんだ。 稜子はいつも微笑んでいた、嬉しくて楽しくて幸せで。 朝は男を送り出し、日中は家事をして、夜に男が帰れば迎えて、ご飯を作り、お風呂に入り、共に寝る。 綾子ひとりで外に出ることは禁止されていたけれど、男に愛でられ過ごす毎日以外、綾子には必要のないものだった。


「なにが異常か、なんてさ。分かるわけないのよ。無理じゃん。幸せなんだもん。」

懐かしむように目を細めて、稜子が笑う。 その眼の先には未だ、男の姿が見えるのだろうか。きっと何より鮮明に。



「私が壊したのか、彼が壊れてたのか、どっちだと思う?」

甘くとろけそうな幸せが続いた夜。 帰宅した男は真っ先に綾子を抱き締めた。 何かを確認するかのように、ゆっくりと腕の力を強めながら。 綾子も応える。 男の背中に伸ばした細い腕にありったけの力を込めて、愛を伝えた。


『ああ、もう良さそうだね』

耳元で男が嗤う。 嬉しそうに愛おしそうに、慈しむように優しい声だった。 なにが、と言う言葉は男の大きな手に吸い込まれていく。


「普通の人からしたらさ、〝頭のおかしいセックス〟なんだって。」

カラカラと、また、晴天の空のように笑う。

初めての交わり。 暗い暗い部屋の中、それよりも暗い暗黒に染まる視界。 綾子が気が付いた時には、あれほど大事にされていた綾子の身体はボロボロだった。

視界を塞がれ、口を塞がれ、首を締められ、快楽は無く嬌声も無い。 時折、自分の口から漏れるのは快楽からは程遠い、捕食される獣ような声。 憎まれているような荒さ、嫌われているような苦しさ、殺されるような痛み。 傷が癒えたはずの稜子の身体には、新しい傷が付けられていく。


「処女だったの。バージン。初めて。死なないように生かしながら、ギリギリの所まで殺される感じ?」

セックスが甘いものばかりではないことは、私も知っている。 相手を支配し、相手に従属する。 暗闇の戯れのようなセックスがあること。 そして、それこそ〝愛の証明〟だと唄う人がいること。痛みこそ愛だと、支配こそ愛だと。 そんな言葉も、わたしは好きだ。


「死ぬかと思ったよ。終わってから痛くて動けなくて。ベッドの上で身体を寝かせたまま。」

愛を唄うように、稜子の唇が動く。 私はただそれを見る。 私の唇がなにひとつ発することを、私自身が許さなかった。


「ああ、なんて幸せなんだろうって思った。」


綾子が私を見る。 真っ直ぐに、私の目を見る。 嘘をつく時に男は目を逸らし、女は相手の目を見る、という。 でも違う。 この眼が嘘をついているのなら、世界中の人間が全て嘘つきになってしまう。 綾子の眼は悲しいほどに真っ直ぐだった。


「彼女がね、居たのよ。ベッドで無惨な身体を晒してる娘を覗き込んで、言うの。」


母親。 綾子にとってその存在はどれほどのものだろう。 痛みに耐え、孤独に耐え。 それでも自分を愛してくれた人。 頭を撫でる手も優しい微笑みも、抱き締める強い腕も柔らかな声も。 なにひとつ、綾子には与えられなかった。


「にっこり微笑んでさ、狂ったみたいに笑いながらさ。愛してるよって何度も何度も言うの。」


ああ、これが愛か。 殴られ、蹴られ、締められ、穿たれ、嬲られ。 それら全ての痕を身体に遺す。 これが愛の証。 私が愛された証拠。 涙が出るほど、綾子には嬉しかった。 私は置いていかれたわけじゃない、嫌われたわけじゃない、母は私に遺してくれたじゃないか。 


〝この身体を〟。


首を締められながら男を見上げるのが何より好きだった、と綾子が言う。 あの瞬間、あの男は確かに私を〝殺したいほど愛していた〟から、と。 骨を折られ、肌を切られ、肉を裂かれ、臓器まで届くように貫かれても。 それら全てが悦びと快楽にしかならない。 

〝愛は暴力〟。 綾子の身体はそれを一生忘れることはなかった。 優しさも微笑みも、この愛には叶わない。 母が教えてくれた、この愛には。


「幸せだったよ。私にはこの愛が似合ってるんだし、抗いたくもないの。」

氷を指先で遊ぶ。 長い睫毛も赤い口紅も、綾子の白い肌に良く似合う。 ああ、きっと。 男もそう思ったのではないか。 私はひとり、心の中で頷く。 刻み付けて、刻み付けて。 これが愛だと解らせて。 外にも出さず、誰にも会わせず、ただ自分だけが愛でる可愛い獣。 広い籠の中で自由に遊ばせて、なにひとつ不自由なく生かしておく。 支配者は誰か、理解させるための愛。


「でも…長くは、なかったかな。 ある日突然、終わっちゃった。」

それからは、夜の街に愛を求めた。 苦しさも痛みも全てを快楽に染める人。 殺しはせず生かしもしない、そんな愛をくれる人。 綾子は求めた。 ただただ純粋に、真っ直ぐに。 それがおかしいと、変だと、狂っている、と私には決して思えない。 

歪な愛を求めて、歪な自分を愛して欲しくて。 そんな誰にでもある感情が、人によってその歪さを変えるだけ。 欲しいものが違うように、求めるものが違うように。〝綾子〟という一人の女はそんなにおかしいのだろうか。狂っているのだろうか。 


「ま、そんな感じ? 今日の姿はなんとなく分かるでしょ、あんたなら。」

悪戯っ子のように笑う。 私は微笑んで頷き返す。 綾子が綾子でいられる場所、街、人。 それら全てを愛して、それでも尚、ただ純粋に愛を求める。 

傍にいて欲しかった人も、欲しかった玩具も、欲した幸せも。 ただ泡沫に消えていくなら、消してしまうくらいなら、全て身体に刻み付けて。 稜子はそうやって生きていくのだ。 明日も明後日も、いつか来る終わり迄。



夜が白んでいく。 

綾子の話はどれもこれも、きらきらと光る言葉とゆらゆらと揺れる淋しさに満ちていた。私はただ耳を傾ける。 ひとつとして逃したくなかった。 綾子の心の裏側、一番奥の柔らかいところまで。 ひとつでも逃してしまったら、綾子が消えてしまうような気がしたのだ。 泡沫と共に、暗い暗い水の底へと。


夜が過ぎ、朝が来る。

朝は嫌いだ、と綾子が言う。 私も嫌いだよ、と私は答える。 見つめ合い笑う。 綾子は何も言わなかった。 だから私も何も言わずに、ただ自分の名刺を差し出す。 名刺に目を落とすこともなく、綾子はそのしなやかな綺麗な指に名刺を挟んだまま背を向けた。 私はその背中を見送る。 見えなくなるまで、見ていたかった。


薄暗いバーから出た外は、白々しいほど明るく私の姿を照らし出す。 だから嫌いなんだ、朝は。もう少し隠しておいて欲しかった。 私も綾子もこの街も。


あの名刺はどうなっただろう。

どこかその辺に捨てられたかもしれないし、本に挟んでそのまま捨てられているかもしれない。 もしかしたら粉々に千切られてしまったのかもしれないし、駅のホームに落とされて風に吹かれたかもしれない。 どれでも良かった。 私が綾子を忘れない限り、綾子も私を忘れないと思えた。 まるで馬鹿みたいな偶然で出逢ってしまったから。


背伸びをして、歩き出す。

此処が何処なのか、どうやって帰ればいいのか、ほんの少し、途方に暮れながら。


幸せになって、と願いながら。




Paraphilia    2019/08/17   終




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