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Paraphilia 〝夜〟


夜の新宿が雑踏に塗れて息苦しく感じた。

その夜は酷く蒸し暑い日で、三時間に渡る講習で疲れた頭にじわじわと回る毒のような空気だった。 涼しくも窮屈なビルから出た私は、数回深呼吸して髪留めを外す。 暑いのに長い髪を纏めるのが苦手なのは、ピリッとした空気が苦手だからだろうか。 二度、頭を振る。 前日に黒く染めた髪が流れて、揺れる。 今度はいつ染めようか、なんて考えながら輝くネオンの方へと歩いていく。


以前、敬愛する先生が言っていた。

「女性の黒髪は素晴らしいものよ。 でも飽きるのよ。 他の色と混ざり合えないから。」

ふふっ、と柔らかく笑う。 とても女性らしい考えだと思った。 一人より二人、二人より三人。 女性は群れを好む。 自分を護るために、愛する子を護るために。 それはきっと本能なのだろう。 では、私は? どこかでどうにか間違えて女になったのだろうか? それはそれで夢がある。 論文に出来そうだな、なんてよく分からない想像が暴走した。


書きもしない論文の構成を考えながら歩く。そのまま暫く想像のまま歩いて、不意に立ち止まる。

あれ、コンビニがない。 来る時に目印にしたコンビニにはもう着いていていい頃なのに。 きょろきょろと辺りを見回す。 暴走した想像のせいで迷子になっていたらしい。 自分ひとりで行動するときは、かなりしっかりしていると思っていたのに。 長引いた講習のせいか、ただの油断か。脳のナビゲーションシステムがダウンしていたらしい。 早くホテルに帰ろうと思っていたのに。

仕方ないのでまた暫く歩いてみることにした。 こういう切り替えの早さには無駄に自信がある。 迷子なら迷子らしくとことん迷子に。 宛のない旅は好きだ。 雨なら雨の日なりに、台風なら台風なりに、雪なら雪の日なりに、楽しまなければ損をした気分になる。 我ながら子供っぽい、そう思うと少し恥ずかしくなるが、その気持ちの切り替えも無駄に早い。


変わらない景色を楽しみながら二つ目の角を曲がろうとした時、肩がぶつかった。 

なんだろうと状況確認するより早く、すみません!という男の声が耳に届く。 路地から走って出てきた男とぶつかったらしい。 状況が確認できた時に見たのは、走り去る若い男の背中だった。 大通りから離れた路地でさえ、新宿のネオンが明るく照らす。 強めにぶつかったせいで少しだけヒリヒリする左肩を数回撫でた。 今日はもしかしてツイてない日というやつなのでは? そんなことを思いながら、男が出てきた路地を曲がって脚が止まる。


路地の真ん中で女性が泣いていた。

見事なまでのうつ伏せで、目に両腕をあてて。 五体投地のようなその格好に頭がフリーズする。 膝丈くらいの綺麗な白いフレアスカートは黒く汚れ、ピンクベージュのパンプスは投げ出された脚の先の方に転がっている。 控えめな色のセミロングの髪の毛はボサボサと広がり、顔は見えない。

頭の上に出たままのクエスチョンマークをなんとかしまい込んで、彼女の近くにしゃがみ込む。 時々漏れる嗚咽の隙間から、鼻を啜る音が聞こえた。 大丈夫ですか? と背中を優しく叩いてみる。 起き上がらない、泣き止む気配もない。 いつからこうだったのだろう。 先ほど慌てて走り去った男となにか関係があるのだろうか。

ぱっと見た感じでは怪我をしている様子はない。 足先まで確認しようと視線を向けると、路地の端に携帯電話が落ちているのに気づく。 近付いて拾い上げると、液晶は粉々になっていて所々破損している。 なんとなく、彼女のものだろうな、と携帯電話を持ったまま彼女に歩み寄る。


「捨てて!!!」

突然の大声に思わずビクッとする。 声の主は間違いなく、五体投地している彼女だ。 少しだけ間を置いて、また嗚咽が聞こえる。 先ほどと同じようにしゃがみ込むと、彼女の肩に手を置いた。

「もういらない! そんなもの!! どこか遠くへ投げ捨ててよ!!」

そう叫ぶと、かばっと勢いよく起き上がる。 ボサボサの髪の毛に、どろどろになってしまった化粧。 つけまつ毛は取れかかって、顔にも道の汚れがついてしまっている。 絶え間なく落ちる大粒の涙の奥に揺れる黒い眼が、行き場のない哀しみと怒りを訴えている。



この眼はよく知っている。

何度裏切られても貶されても、汚れても打ちのめされても、決して折れなかった女性の眼。 何度も何度も傷付けられて血を流す度に、何度も何度も自分で包帯を巻き続けた女の眼だ。 それでも、愛する人を一途に求め続ける女の眼。 私の目を真っ直ぐに睨むように動かない。 大粒の涙は止まることなく溢れ続ける。


だから私は、手にしていた携帯電話を思いっきりぶん投げた。

路地の先の壁を目掛けて、自分の全力をもって思いっきり。 ガシャン!と強い音を立てて、携帯電話が地面に落ちる。 下もコンクリートだ、もう生き返ることも無いだろう。 私は変なところで切り替えが早い。 そう、切り替えの早さには無駄に自信があるのだ。 人知れず満足して、振り返る。 大粒の涙も、睨むような眼も、どこにもなかった。 ただただ、唖然とした顔で私を見上げる女性。 


「マジ…?」

たっぷり一分ほどの間を置いて、やっと彼女が上げた声に私は頷く。 


まだ蒸し暑い。夜はきっと寝苦しくなるだろう。

思いっきりぶん投げたせいで、普段使わない肩の骨が少し痛い。 ああ、下投げにすればよかった。 そんな馬鹿なことを考える。


〝綾子〟と名乗るその強かな女性と出逢ったのは、新宿のどこかもわからない、狭い狭い路地だった。





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