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燻らす煙 喫煙席にて


東京に行くと、必ず訪れる喫茶店がある。

有名な喫茶店で珈琲が美味しい。悲しいかな、珈琲が飲めないくせに、その喫茶店で一息つくのが好きだった。空いているならば喫煙席に案内してもらう。煙草は吸わないけれど、喫煙席のなんとも言えない雰囲気が好き。禁煙席よりもゆったりできる。周りに喫煙者が多いからだろうか、安心するのかもしれない。喫煙席には男性と女性が一人ずつ、私を含めて三名の客しかいなかった。

段々と淘汰されていく。あの頃は良かったなんて口にすることは無いけれど、色んなことに制限がかかる時代になっていくな と心で呟く。よく、女が煙草を吸うきっかけは付き合った男だ なんて言葉を聞くけれど、私は違った。きっかけはここには書けないけれど、24歳位までは煙草に助けてもらうこともあった。今は、遠出する時だけ吸いたくなる。こう言うと大抵の人は驚くけれど、日常生活に支障はない。


煙草を吸いたくなるのは、淋しいから。

私の場合はそんな理由だった。愛煙はSevenStarのソフト14mg。そこからボックスの8mgになっていった。昔も一日に多くて三本ほどだったと思う。吸いたくてどうしようもない時はなかった。淋しさに負けそうな時だけ、感情を押し殺すように火をつけた。身体に悪いとか、副流煙とか、そんなことを気にするような人間でも無かったし、吸うのは大抵、自室だけだった。

別に淋しくなくなったわけじゃない。きっとあの時より〝淋しいもの〟を知ってしまったのだと思う。遠出をすると、なんとも言えず淋しくなる時がある。目に見えるもの全てが、自分自身が淋しくなるような違和感。その違和感に負けたくないのか流されたくないのか、それは解らないけれど、どうにか立っていたいのだと思う。



煙草を吸う人の横顔。

ぼんやりと空を眺める人、スマホに目を落とし続ける人、談笑する人、本を読む人。そんな人の横顔がどうしようもなく好きで。煙草を吸う人間だけが纏う雰囲気や空間が、私にはしっくりくる。それが淘汰されてしまうのは悲しい。必然なのだろうけれど、きっと決まっていたことなのだろうけれど。どうしようもなくやるせない。

「自分にお線香をあげてるんだよね。お疲れ様って。」

知り合いの和尚さんが、そう言って笑った。なんとも白々しくも上手い言葉だな と私もつられて笑う。何かしらの理由をつけてでも吸いたいのは、ただただ煙草が美味しいから。自分の気を緩めるひとつの手段だからじゃないだろうか。これもきっと、喫煙者の白々しい言い訳なんだろうな と思いつつ、和尚さんに勧められた煙草に火をつけた。


気を抜くこと、力を抜くこと。

何故こんなにも難しいのだろう。生きにくさばかりが蔓延していく。脱力することさえ、私は未だに上手くできない。欲しいのは、力を抜いて生きていける場所なのに。なかなか辿り着けない。やっと辿り着けてもあっさりと崩れてしまう。そんな不安や焦りや苛立ちを煙に変えて吐き出してしまえる。そんな手軽さが新しい煙草に手を伸ばす理由なのかもしれない。

生きてるだけでは手に入らないものばかりで、自分が生きる理由なんてものが欲しくなる。それはきっと人間が持つ弱さなんだろう。でも生きる理由なんて不確定なものを考える時間も、私にとっては楽しい時間だった。あれこれ候補を上げて、消去法で消していく。最後に残ったものが自分にとって最も〝譲れないもの〟なのだとしたら? きっとそんなに簡単な問題でも、ないのだろうけど。


喫煙席に座り、本を開く。

夏の喫茶店は冷房がきつい。冷え性なので長居ができない、これが辛い。パソコンと睨めっこする男性客と、書類にペンを走らせる女性客。交わることがない三人が、この時間、このタイミングで喫煙席に座っているということ。私はその偶然を感じることがとても好きだ。

ここから出たら一生会わないかもしれないし、もしかしたらどこかで縁が繋がるかもしれない。日常に溢れる〝もしかしたら〟は、とても楽しい。勿論、楽しいのは私の脳内だけ。黙々とテーブルに向かう二人には届かない。そんなものだ。私はゆっくりと頁を捲りながら、文字を追いかける。

煙草も吸わず、珈琲も飲めずに、ただそこに居たのだ。






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