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知らせる権利を行使するな

 あるフィギュアスケーターの離婚発表が波紋を広げている。
 細部について取り上げる気はないので割愛するが、どうしても僕は、先の結婚発表自体が不要だったと思えてならない。
 それは何もこの人だけではない。いわゆる有名人とされる人が、やれ結婚したの、やれ離婚したの、なんてことをなぜ全世界に公開する必要があるというのか、まったくもって理解できない。
 前者については、顔も知らない不特定多数からおめでとうと言われたいのかそんなにも見知った特定少数の祝福だけでは満足できないほど欲深なのかそれとも目の前の人にそこまでの価値はないのかと人間性を疑うし、後者については、んな気の荒むこと公表しないでくださいよとこれまた不可解である。特に離婚は昨今では卒婚という言葉に言い換えてみたり、離婚式だとかいうイベント化したりすることで、まるでネガティブなものではないという印象操作をしている節もあるし実際そう言い張る人もいるわけだが、結婚というものが絶対的にネガティブなものだとされない以上、その対極である離婚はどう取り繕ってもネガティブなものなのである。


 閑話休題。
 知り合いでもなんでもない赤の他人の婚姻状況などという極めて私的なことを知ろうとする側には大いに問題があるわけだが、もちろんこれは有名人だけではない。僕も含めた無名人が、自分のやっていることをその内容の公私を問わずこうして全世界に発信することができるのもまた現代である。だからこそ、受信する側だけではなく、発信する側も気を付けないといけないわけである。
 ここで問題になるであろう概念が知る権利である。しかし知る権利は私的領域にまで踏み込んでよいものなのかということでもある。だがその私的領域は、自ら公開した時点で公的性を帯びるわけであり、一度公にした権利を自らの固有のものとして取り戻すのは困難である。なぜならそれは、全人類の権利を奪うことになるからだ。誰しもが、権利を奪われることは不当だと感じるものである。実現しないことだってある。


 知る権利を拡大解釈して権利意識が肥大化した大衆にダイエットをさせるためには、知らせる権利の制限が必要だ。とはいえ国家機関などの第三者が、そこに制限を課すのは困難なことだ。しかし節制できなかった結果の肥満体どもには、もはや自制など望むべくもない。
 だからこそ発信する側は、つまり知らせる権利を行使する側は、それが私的なものであればなおのこと、注意深くあらなければならない。それを怠ったときに不利益や不都合を蒙るのは、ほかでもない当人であり、ときに当人よりも大切な人にまで及ぶのである。


 もっぺん言っておく。先の結婚発表が不要だった。だから聞かされたほうはどんな人が相手なのだろうと気になった。ここについては僕も例外ではなかった。だが僕はあえて調べるようなことはしなかった。フィギュアスケートにもその人にもさほど関心はなく、情報が足元まで広がってきていてもなお、誰かの私的領域に踏み込む権利はないと弁えているからだ。
 もう離婚しましただから相手(など)には接触しないでくださいという今回の訴えは、おそらく聞き入れられることはない。まともなメディアならまだその良心に期待できるところだが、今なお逮捕されていない迷惑系YouTuber鹿がそろそろ動いているだろう。これに関する報道を見聞きしてまた気の荒む自分の未来が予知能力者のように見ることができていて、僕は早くもうんざりしている。

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