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障碍者と社会に関する備忘録的な。

 古代の人々の生活の跡から、足が折れて再度くっついている人骨の化石が見つかったという。自然界の動物は基本、翼が折れたり足が折れたりすれば死を迎えるのと同義で、つまり昔からヒトは、傷ついた仲間をかばう習性があったと推測されている。

 ミームが発達すると、知的障碍者を"天使の使い"と見做す文化も発生したという。理解不能だと拒絶するのではなく、自分たちにはよくわからないが何かが降りてきているのだろう、と捉えることで障碍者らも社会に包括していたようだ。

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 車椅子を利用する障碍者が映画館で、障碍者向けの席ではなく、より良い(巨大なスクリーンを鑑賞しやすい)席に座るためにスタッフの助力を度々頼み、映画館の管理者から利用を断られた件が話題になった。
 それに付随し、健常者にとっては日常のごくアタリマエな生活を、障碍者が同等に送ろうとした際に助勢をした他人にお礼を言うべきか否かという議論も発生した。

 まだまだ日本は、車椅子で社会生活が不自由なく送れるとは言い難い社会であるのは確かだ。最低限のインフラこそ整ってはいるが「車椅子が難なく通行できるように建てること」という制約が全ての建物に課せられているわけでもない。

 僕が住む家だって、車椅子が珍しい時期に建てたものでバリアフリーのバの字も考慮されていないので、例えばある日僕が車椅子ユーザーになったら日々の生活が地獄に変わるだろう。ただ家に住んでるだけなのに。
 かといって、ではバリアフリーの家に引っ越したら毎日、誰もいない空間に向かい感謝の言葉を述べなければならないのかといえば、それでは只のキチガイだ。

 車椅子ユーザーは、他の健常者と同等の生活を街中で送りたいだけにも関わらず、同等に振る舞おうとすると健常者からは、歩行者天国に車や単車で乗りこむ迷惑なヤンキーと同じように見なされかねない。今は多様化を尊重する気風があるから良いものの、30年前あるいはもっと昔であれば、車椅子とヤンキーの区別はされなかっただろう。

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 健常者も障碍者も、同じ人間だ。男と女もそう。
 だが、同じ人間だというミームが、どうあがいても決定的に異なる側面から目を逸らせている。それが誘引となった解決困難な問題がいま、あちこちで噴出しているように僕には見える。

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