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住吉夜警員強殺/殺人前歴ある17歳18歳

先日発信した、『少年時代に殺人前科前歴のある死刑囚』の資料を集めてまとめていく過程での折原臨也さんとの何気ないやり取りの中で出た話に「少年なのに殺人の前歴がある者がいるんですよね」と、管理人さすらうがほっておけない情報をお聞きすることがあった。
「これは情報発信しなければならない 」と勝手に使命感に駆られ、その後調査を続けて全容がようやく判明したのでここに記すことにした。

住吉夜警員二名強殺事件

二度目の殺人事件は昭和40年5月28日早朝、大阪市住吉区にある木材会社に何者かが侵入し一階事務所で仮眠中の夜警員のSさん(67)とOさん(65)が頭部を殴られて殺害されているのを同社に寝泊まりしていた出張工員の三人が発見。社長に報告し、社長から警察に届け出があった。
室内は物色された跡もあったが、現金の入った金庫には手をつけずに被害品はOさんの腕時計一個だけ。その結果二人の尊い命が奪われるという何ともやるせない事件となった。

捜査

なので、はじめは恨みによる犯行の可能性も考えられたがこの木材会社は大阪湾に面しまわりは倉庫ばかりで人の気配はなく、付近では度々倉庫荒しや窃盗事件が発生していたため物取り目的の同一犯の可能性もあるとみて捜査が開始された。
事件現場の室内の状況から内情を知る者の可能性が高いと目星をつけ、この木材会社に出入りしていた下請け会社の工員を一人ずつ聞き取り捜査し、事件後に姿を眩ませている男がいるとの有力な情報をつかんだ。
その男は事件後、奈良県大和郡山市の工場に潜り込んで働いていたN田(24)で同年7月15日に任意出頭を求め、追及した結果ついに犯行を認めて緊急逮捕となった。

共犯はなんと17歳と18歳の少年

8時間追及した結果、N田が「三人でやりました」と共犯の少年二名の名前を自供し、捜査員が直ちに共犯者の宿先に駆けつけ、宿に戻った所をA(18)はすぐに取り押さえられたが、もう一人のB(17)はシャツにパンツ姿で裏口から逃走した。しかし7月17日の朝にBの知人宅に現れた所を張り込んでいた捜査員に捕らえられた。
少年二人は同級生で中学時代からの友人。N田とは暴力団事務所に出入りする白タク仲間で犯行の動機はN田が交通事故を起こした際の罰金や滞納していた市民税が払えずに困り、出入りしていた木材会社には集金日に金があるから襲撃しようと少年二人を誘っての計画的な犯行だった。
(※白タクとは無許可の違法タクシー)

殺人に積極的な少年

最初に事件を計画し誘ったのはN田だったが途中で犯行を躊躇し殺害には消極的だったが、Bが「殺して金を奪おう」とN田をけしかけた。脅すための日本刀はAが用意した。Aが日本刀を振り下ろす合図でN田とBが家具用の固い木材でSさんとOさんの頭部を殴打し殺害。
N田は逮捕時に泣きながら「僕がやった」と自供するくらい気が弱い所がある。(少年より7歳も年上なのに)
一番積極的で人の命をなんとも思ってないのが最年少のBで法律上死刑には出来ない17歳という歪な力関係が判決にも影響した。
昭和40年11月29日に大阪地裁刑事十部(石原裁判長)
残忍な犯行としながらN田は殺害には消極的で少年にそそのかされた形なので無期懲役判決(求刑は死刑)
17歳のBは死刑相当だが少年法51条により刑を緩和し無期懲役判決(求刑無期)
18歳のAは18歳になったばかりなので罪一等を減ずる。無期懲役判決(求刑無期)
公判では二少年の前歴にも触れられた。驚くことに過去に岡山で殺人事件や窃盗事件を起こしていた。

少年たちの殺人前歴

住吉事件は少年二人が広島少年院を退院し、わずか三ヶ月後に発生している。以下の事件で約1年間の保護処分で広島少年院に入院していた。
少年AとBは昭和38年12月18日に岡山市内の卓球場で、ピンポン玉が被害者(15)の足元に転がったのを「拾ってくれ」とお願いしたのを断られて逆上し裏に連れ出してAとBで暴行を加え当時15歳のBが持っていた包丁で胸をひと突きして殺害
事件時には卓球場には20人ほどがいたが一緒に来ていた被害者の弟がまわりに助けを求めるまでは誰も騒ぎに気づかなかった。AとBはタクシーで逃走し市内をぶらついてる所を捜査員に見つかり逮捕された。
二人はそれまでも窃盗や放火などで少年院や鑑別所を出たり入ったりしていた。
Aは窃盗事件で収容された少年院を前年9月に退院しその後に再び窃盗事件で送られた鑑別所から前日に釈放されたばかりで、Bは過去に5回の窃盗や映画館放火事件で保護処分となり5か月前に米子の美保少年院を出たばかりなのに再び民家の空き巣事件で過去と同様の手口からBの犯行と指名手配されていた。
被害者少年には非行歴はなく職場での評価もよく、父親は少年問題に熱心で警察の共助員として活動していただけに無念だろう。
N田やA少年も悪質だが二人が霞んでしまう程の冷酷な少年Bの家庭は商売がうまくいき不自由なく育った。何故そのような環境で人の命などなんとも思わぬ人間性が形成されたのかは当時の資料からは読み取れなかったが、すぐにカッとなり刃物を持ち歩くのは自分の弱さから身を守ろうとする心理ではないかと専門家が意見している。
当時は早ければ十数年で仮釈放が認められてた時代、腕時計一個、転がったピンポン玉が理由で未成年にして三人の命を奪った二人が再び社会に戻った時にこれ以上の罪を重ねてないことを願いたい…   

参考
【大阪新聞65.5.28夕】【毎日65.7.16】
【朝日大阪65.7.17夕】【朝日大阪65.11.29夕】
【山陽63.12.20】【読売岡山63.12.20】
協力
折原臨也リサーチエージェンシー様


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