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⑭ 広島両親尊属殺人 宗岡省吾(19)

厳しい家庭で育ち

『父は元軍人で短気、母は厳しい倹約家』
宗岡省吾(犯行時19)の両親は厳しい。特に金銭面では相当激しく叱責され、一人息子だった省吾の疑心の強さを形成させるほどの厳しさだった。
広島に住んでいた省吾は昭和21年4月からとなり村の東志和村の小学校で助教員として働いていたが、まもなく同僚の女性と情交関係を結ぶ相愛な仲になり、この女性は妊娠する
この事を両親に相談しても結婚を認めてもらえないと思い中絶を決意するが、その費用を知人へ金策していたことや、家からこそこそと金銭を持ち出していたことが父親に発覚し、いつも以上に激しく叱責され殺意が芽生えた。
【広島県警察100年史】

犯行の夜

昭和23年6月11日の夜10時過ぎに父が田畑の見回りに出た際に浴室で入浴中の母を「よう虐めてくれたの」と匕首で何度も刺し、「もう言わないから助けて」と逃げようとしたところをとどめを刺し絶命させ、裏口にまわり父親が帰るのを待ち、戻った際に背後から襲い右側頚部を刺して殺害した。相当な殺意があったのだろう。
その後、現場を荒らし足跡の偽装工作して、日付が変わった深夜2時に最寄りの駐在所に「両親が殺されて家が荒らされた」と自ら届け出た。
【昭和23年6月13日中国新聞】
【広島県警察100年史】【刑資56号上】

逮捕

逮捕時の記事は【昭和23年6月15日中国新聞】にある。残念ながら文字の判別が難解であるが、14日に犯行を自白したことと、「一日でも早く苦しい生活から抜け出したかった」「無罪か執行猶予にしてほしい」という取り調べでの供述が掲載されている事は読み取れた。
見出しは『犯人意外にも息子』となっているが、近隣住人への聞き込みから警察は省吾の女性や金銭のだらしなさを聞いて目星はついていたと思われる。
また省吾は同年12月3日に京都拘置所で鑑定を終えて廣島に護送中の列車でトイレに行った際に隙を見て飛び降りて逃走し看守と格闘の上、20分後に捕まっている。
【中国48.12.4】

中国新聞49.2.13

裁判で死刑が確定し恩赦

昭和24年2月12日 広島地裁 死刑
昭和25年1月25日 広島高裁 死刑
昭和25年2月21日 上告取下げ
昭和27年4月28日 政令恩赦で無期減刑
【刑集37巻6号】【日本の死刑】

※当時あった尊属殺人罪は死刑か無期懲役という重いものだったが、1973年4月4日の最高裁判決で「過度の加重規定は違憲」と確定判決が下り、1995年に削除された。


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