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⑦ 鹿児島雑貨商一家強殺 青木敏朗(17)

生い立ち

青木敏朗(犯行時17)は静岡県で生まれ実父と死別し家出や盗みを繰り返し関東学院を二年で中退、仕事は何をやっても長続きせずに16歳の時に逃亡、強盗の罪で服役していた軍刑務所を釈放され鹿児島に流れ着いた。
【南日本新聞昭和23年2月21日】【恩赦と死刑囚】

雑貨商一家強盗殺傷事件の内容

昭和22年12月10日頃に静岡の雇い主から盗みをして出発し鹿児島に流れ着いた。同16日に天文館付近で生け花用の手斧を買い、18日に鹿児島市西千石町の雑貨商宅に侵入し一家三人を襲撃し主人と長女を殺害、妻にも重傷を負わせ金品を奪い火を放ち逃走した(放火は発見者に消し止められ未遂)
【刑集37巻6号】【南日本新聞昭和22年12月22日】
※刑集では夫婦を殺害し、長女に重傷を負わせた事になっているが当時の新聞報道(青木への一問一答)などから長女を殺害し妻が重傷が正しいと判断した。

逮捕から裁判まで

青木は鹿児島に着いてからは『武田敏雄』という偽名で活動していたが、これは静岡での雇い主の名前から連想し名乗った偽名だった。
青木の逮捕は事件から二日後で屋久島安房港に停泊中の「十勝丸」の船内で屋久島署の巡査部長が、手配中の犯人の人相にそっくりで右手首に傷がある青年を発見し、さらに被害者の名前が入った上着を着ていたために取り調べをした結果白状したために逮捕となった。
鹿児島港に入港した際は逮捕の一報を聞いて集まった群衆から怒号が飛んだが青木はふてぶてしい態度で連行された。
(しかし当時の写真を見るとそんな態度や残忍な犯行内容とはほど遠いあどけない少年)
【南日本新聞昭和22年12月22日】

南日本新聞47.12.22

青木の公判にはものすごい数の群衆が押し寄せた様子が当時の新聞に掲載されている。
公判では「仕事はきらい。働きたくない」「人を殺しても悪いとは思わない」などとうそぶき、逃走中に自分の手配書が張り出されているのを見てもなんとも思わなかったと言っている。
求刑は死刑【南日本新聞昭和23年2月21日】

鹿児島地裁昭和23年2月27日死刑判決
福岡高裁宮崎支部同年11月29日死刑判決(覆審制)
青木はおちついて「服罪します」とにこやかにほお笑みながら退廷した
上告をしなかったので死刑が確定した。
旧刑訴法418條上告期限5日により昭和23年12月5日が正式な確定日
【刑集37巻6号】【毎日西部本社昭和23年2月28日】
【南日本新聞昭和23年11月30日】【更正保護52.5】

恩赦

犯行時17歳だった青木敏朗は新少年法が公布され死刑は18歳以上にしか適用されない事となり、鬼頭正一、李祥根と共に昭和24年に恩赦で無期懲役に減刑となった。【恩赦と死刑囚】

収監60年以上

毎年11月末から12月に法務省が公表する『無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等』のリストの中に青木と思われる人物が確認できた。
平成22年のリスト38番目に「70代で収監60年10月で許可しない」がいるが(現在は更新され平成22年はリストから削除)、被害人数や内容から該当するのが青木しかいないという事でこれが青木敏朗で間違いなさそうだ。【矯正医学48巻】では29歳で結核になり病舎へ、独り言、空笑、拒食などが見ら35歳で医療刑務所に収監され幻聴などに悩まされ投薬により懲役作業に復帰したりしたが、精神分裂病と診断されている。

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