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広島山口連続老女強殺T.K(19)

少年に死刑のボーダーラインはあるのか?

山梨県甲府市の特定少年第一号となったEの話題で「千葉祐太郎以来の少年死刑囚誕生だ!」とネット上では一部の気の早い人たちで盛り上っているが、公判予定はこの記事を書いている時点ではまだ決まっていない。
(追記:その後10月25日に初公判が決まった)
色々な文献を見ていても少年を裁くのは難しいと感じている。そもそも長い裁判官人生の中で少年の死刑事件を担当することすら希なのだ。
近年は10年に一度あるかないかの頻度である。世論も社会情勢も少年を取り巻く環境も変化が激しい。
昭和40年代に発生した事件で死刑を求刑された少年は11人いるが、一審と二審で判決が覆ったケースが5人いる。うち被害者が一名なのに控訴審で逆転死刑になった者が3人、控訴審で死刑が破棄された者が2人。この時代では死刑判決の可能性が高いと思われる死者二名の事件で死刑判決が出ず検察も控訴せず、そのまま無期が確定したの者が2人と裁判官の裁量次第で結果がずいぶん変わるんだ…と個人的には感じているが、その中でもあまり知られていない二少年による連続老女強殺事件を今回紹介し、最後に40年代の少年死刑事件について簡単にまとめた。

広島山口老女連続強盗殺人事件

昭和42年1月11日午後5時半過ぎ山口市のIさん宅に妻のA子さん(34)が帰宅した際に異様な空気を感じた。
部屋中にガスの臭いが漂い、衣類が散乱。恐る恐る奥の部屋をのぞくと留守番をお願いしていたA山さん(68)が複数箇所刃物で刺されて血の海に倒れていた。
すぐに病院に運ばれたが残念ながら死亡が確認された。
Iさん夫妻は共働きで長男(3)と長女(1)をA山さんに預けて留守番をお願いしていたが、子供たちは無傷で無事だった。
カメラが盗まれており、現場から50メートルの所でも腕時計や現金が盗まれる被害が出ていた。
長男が「おばちゃんとごはんを食べた」と話してることから犯行時間は11日お昼過ぎから夕方5時までが有力とされ捜査が開始された。
【中国67.1.12】

犯人は19歳と15歳の二少年

事件の翌日に聞き込み捜査から下関市内の旅館で不審な少年がいるとの情報を得て現場に向かい、大丸旅館に宿泊していた2人の少年の所持品を任意で調べたところ、カメラや腕時計、ネックレスや指輪など見つかり更に血のついた出刃包丁も見つかった。追及した所、山口市のIさん方のA山さん殺しを自供した。逮捕されたのは19歳T.Kと15歳の少年。
犯行当日は午後二時に他の家に盗みに入り、一時間後にIさん方に侵入しA山さんを包丁で脅したがA山さんが泣き出したために、先ずはT.Kが出刃包丁で複数回刺し、15歳が「俺にもやらせろ」とT.Kから包丁を奪い更に複数回刺して絶命させ、布団をかけ指輪やカメラを奪った。
子供たちまで刺すのは躊躇ったのか危害を加えずに逃走した。
【中国67.1.12夕】

山口事件の 5日前にも人を殺していた

13日の取り調べでT.Kが驚く事実を自供した。
同月の6日に広島市で同様の事件を起こしていたのだ。
被害者のY崎さん(56)は夫とは死別し息子と娘はすでに一人立ちして別居。静かな余生を送っていた。
少年らは一人暮しを確認して訪れ、包丁を見せて脅したが大声を出されたのでタオルで首を絞めて殺害し、遺体を押し入れに入れ現金6千円を奪い逃走した。
Y崎さんは一週間近くも誰にも発見されない寂しい最期となってしまった。
T.Kは建築会社で働きおとなしくて先輩には従順で受けもよく月給は2万円以上(大卒初任給3万円)、15歳は船の会社で働いていて1年前にT.Kと出会った。
「大阪で派手に遊びたい」という短絡的な動機だった。
事件前日に福山市内に住んでいたT.Kを15歳が訪ね、汽車に乗り広島市内で出刃包丁を購入し、電車を乗り継ぎながら家を物色していた。
事件発生の年の山口県下では全強盗事件の約6割が少年によるものというデータがある。
中学卒業後、高校中退後に一度は就職するが社会に馴染めずに転落するケースが多かったようだ。
【中国67.1.14】【朝日広島67.1.14】
【朝日山口67.1.13】

強盗殺人死者二名で無期懲役判決

昭和43年4月12日 山口地裁 
T.Kに無期懲役判決(求刑死刑)
犯行時15歳には懲役12年(求刑は15年)
※少年法51条の無期刑相当、刑の緩和
T.Kは単独での婦女暴行事件でも起訴されている。
「少年なので思考、判断ともあいまい。将来性格を改善する意思がないとはいえない」
というお約束の文言による判決理由であった。
また検察が控訴せずに一審で確定している。
【中国68.4.12夕】【法務研究報告書】
T.Kが何故死刑を回避したのかの素人的な考察だが、犯行の内容的にどちらが一方的に悪いとか、主従関係があるということはなく罪の重さは同程度、しかし15歳は少年法により最高でも懲役15年にしかならず、T.Kだけが死刑ではバランスが悪い…そんな考えが裁判官にあったのではないだろうか。

判断がバラバラな昭和40年代の少年死刑事件

冒頭に触れたが昭和40年代に発生した少年事件で死刑を求刑されたケースは11人。
うち強盗殺人死者1名で一審の無期懲役判決がそのまま確定した者が2名(伊勢原タクシー強盗殺人、名古屋千種中華店強盗殺人)で妥当な判決であろう。
一審の死刑判決がそのまま一度も覆らず確定した者は松本二三男(死3、上告取下げ)と黒岩恒雄(死1、上告棄却)
一審の死刑判決が控訴審で破棄されたのはK野(死1、無期懲役確定)と永山則夫(死4、差し戻し控訴審で再び死刑判決、上告棄却)
一審の無期懲役判決が検察控訴により控訴審で死刑になった例は片桐操笹沼充男菅野純雄(三人共死者1)
被害者が二名でも死刑判決が出なかったのがI.J(尊属殺人)と今回のT.K(強盗殺人)である。どちらも検察の控訴はなかった。
これを見ると少年の死刑と無期の境界線が全く見えてこない
尚、昭和50年代に発生した事件で少年に死刑が求刑されたケースはゼロである。昭和63年発生の名古屋アベック殺害事件までない。
昭和56年8月21日に東京高裁で4人を殺害した永山則夫の一審死刑判決が破棄され無期懲役に減刑されたことも多少は影響しているかも知れない。

少年を死刑にするかの判断はベテランの裁判官でも割れる…
冒頭のEもどのような判断が下されるのだろうか?

参考サイト:折原臨也リサーチエージェンシー

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