見出し画像

少年時代に殺人前科前歴がある死刑囚

ネット上の意見として「人を殺すような少年は更正せずに出所後にまた繰り返すからもっと厳罰化しろ」というのが散見されるが、戦後約880人の確認されている確定死刑囚の中にどれくらい少年時代に殺人の前科前歴がある者がいるのか気になり調査を進めて記事にまとめた。番号は死刑の確定順とした。

①浅田三次

浅田は昭和22年2月3日夕方、福岡県嘉穂郡山田町にてKさん宅に侵入し炊飯場で主人を絞殺して女性物の衣類十数点を奪い逃走。帰宅したKさんの妻が発見し大隈署に届けた。
被害にあった主人は2年前から足を悪くしていて家に引きこもり状態で毎日朝5時には妻と娘が働きに出て生活費を稼いでいた。
質入された被害品から足がつき翌日に同町に住む浅田を引致取り調べし犯行を自白したので逮捕。
博打で膨らんだ借金を埋め合わせるためにKさんに借金を申し入れたが断られた末の犯行だった。
【朝日西部47.2.5~6】
昭和22年3月1日 起訴 同13日 予審終了
(予審制度は公判前に予審判事が必要な事項を取り調べて被告事件を公判に付するべきか否かを決める手続で現行の刑訴法で廃止)
同年4月21日 福岡地裁飯塚支部 死刑判決
同年10月2日 福岡高裁 死刑判決(旧刑訴法は覆審制)
上告をしなかったために10月8日に死刑が確定した。
旧刑訴法は上訴期限は5日
浅田には18歳の時に大阪で実父を殺害した尊属殺人の前科がある。
昭和9年2月28日 大阪地裁で懲役5年以上10年以下の判決で収容された小田原少年刑務所を昭和15年12月25日に仮出獄しその約6年後に再び事件を起こした。  GHQ文書では『ASADA Sanji』となっている
死刑の執行は昭和23年10月26日で面会は一度もなく手紙も3通だけで実母が遺体の引き取りを拒否したのでH大学に送られるというさみしい最期だった。
【西日本47.10.3】【GHQ文書】

②久田徳造

久田徳造は17歳の時の昭和30年6月25日兵庫県姫路市で、中学校事務職員のMさん宅に小遣いほしさで侵入し妻に見つかったために棒で頭部を殴って殺害しメガネを奪った。現場は部落から離れた笹藪に覆われた一軒家。
付近での目撃情報、過去の窃盗での数回の検挙歴、家出を頻繁にしていたことなどから久田を有力容疑者とし任意出頭を求め、現場近くの久田が寝泊まりしていたルンペン小屋から血のついたズボンとシャツを洗って干してあるのが見つかり同月27日に逮捕された。
昭和30年10月27日 神戸地裁姫路支部で懲役15年の判決(求刑無期懲役)※実名報道
【読売播磨55.6.29】【朝日兵庫55.6.29】
【読売播磨55.10.28】【神戸55.6.27、6.28夕】
奈良少年院から大阪刑務所に移送され昭和41年7月に仮出所した久田は、昭和43年5月24日夜に加古郡播磨町の衣類雑貨商のOさん宅に侵入し主人と妻を刃物で数ヵ所刺して殺害。現場で採取された4つの指紋と少年時代の事件の指紋が一致して同年5月28日に逮捕された。
出所後は真面目に働き職場での評判は良かったが文通で知り合った女性との結婚資金を競馬で稼ぎたく、そのための軍資金がほしかった事が動機であった。
昭和43年11月12日 神戸地裁姫路支部 死刑判決
久田は「死刑は当然です。被害者遺族に一番にあやまりたい。両親のことも気になるが…」と記者に答えた。
昭和44年6月26日 大阪高裁で控訴棄却
上告せずに死刑が確定し昭和50年6月2日に死刑が執行された。確定後はキリスト教を信仰して多くの支援があった。
【読売播磨68.11.13】【神戸69.6.26夕】
【甦った人 : ある死刑囚の証したことP76~】
※教誨師は有沢和夫牧師

③高橋正彦

昭和31年11月10日青森県弘前市で友だちと近所の旅館で鬼ごっこをして遊んでいたSさんの長女(7)が行方不明になり捜索願が出されたが12日朝に旅館3階の天井裏から乱暴された状態で亡くなっているのが発見された。
宿泊客が番頭の長男(16)に現金入りの鞄を「帳場で保管してくれ」と預けて外出し、宿に戻った際にカバンも長男も姿が見えなかったが遺体と共に預けた鞄が天井裏から発見されたことで長男(16)が指名手配された。マッチで火をつけた形跡もあった。
逃走して足取りが掴めなかったが同月19日に東京の浅草にて逮捕された。北海道時代の仲間が東京にいたことで東京潜伏説が有力視されて繁華街を中心に捜査を続けた結果だった。
昭和32年6月3日に青森地裁弘前支部で懲役15年(求刑同)無期懲役相当だが少年法51条を適用した。
【読売青森56.11.12~21】【読売青森57.6.4】
出所後にこの長男は再び猟奇的な事件を起こす。
大人になった殺人少年は高橋正彦。東京切り裂きジャック事件と呼ばれる連続殺傷事件を起こした。
概要は以下の通り。
昭和42年8月2日に浅草の飲み屋で経営者の女性と口論となりカウンター越しに包丁で左胸を刺し逃走。女性は血まみれで近隣に助けを求めて病院に運び込まれたがまもなく出血多量で死亡した。
翌年の元旦に渋谷の飲食店で酒を飲み同店の従業員女性を誘い旅館に行ったが、些細なことでバカにされたと思い込み登山ナイフで約百ヶ所を滅多刺しにして殺害し遺体の一部を損壊した。
同年7月10日に新宿でまたもや飲食店経営者女性と口論の末に小刀で腹部を刺して逃げた所を、近所の人に取り押さえられて逮捕。取り調べで元旦の事件も白状した。
昭和44年10月29日に東京地裁で求刑通りの死刑判決
同年11月14日に控訴を取下げて死刑が確定した。
高橋は獄中で昭和28~29年に旭川市で発生した三件の事件を告白する手記を出した。一件は昭和28年4月に旅館の女中が湯船で溺れた事故死、一件は昭和29年5月4日の6歳の同級生による過失致死事件、もう一件は同年10月24日に女児が刺されて薄弱少年が犯人として捕まり決着がついている事件の合わせて三件。「自分がやった」と犯人しか知り得ない事なども手記に記されていた。
高橋は死刑執行され(正確な執行日不明)真相は不明
【読売67.8.3】【読売68.1.3】【読売68.7.13夕】
【朝日69.10.29夕】【読売70.12.10】【刑資213】

④浜本栄

昭和30年9月20日、広島県尾道市吉和町で老婆がズボンで首を絞めて殺されているのが発見された。被害者は実弟の命日で墓参りから帰宅後の悲劇だった。
場所は漁師町で迷路のような小路にあり、土地勘がある者の犯行とされ捜査の結果、翌月8日に指紋から漁業手伝いの少年(17)が逮捕された。過去に何度も自転車窃盗での検挙歴があり少年鑑別所から出たばかりだったが、犯行動機は空き巣してる所を被害者に見つかったためだった。
昭和31年6月4日 広島地裁尾道支部で懲役12年(求刑15年)※判決時に実名(浜本栄)の報道だった
【読売広島55.9.22】【読売広島55.10.9】
【読売広島56.6.5】
昭和37年12月6日に尾道刑務所を仮出所した浜本はわずか一ヶ月ちょいで再び殺人事件を起こす。
昭和38年1月20日、三原市の駅前商店街の飲食店の経営者女性が首を切られ脇腹に包丁が刺さった状態で死亡しているのが発見された。
同月31日には兵庫県で魚商をしているSさん方で「釣り船を貸してくれる所を探している」との訪問に対応したSさんの妻を「金を出せ」といきなり首を絞めてナイフで切りつけて2週間の怪我を負わせ逃走。その後に飛び込んだ家の主人に「喧嘩した」と話すと主人に自首を促されたが近隣から自転車を盗んで逃走した。
前科があったことで重要参考人としてマークされてた50人の中に入っていたが、泊まり歩いた旅館で本名を書いた事で浜本栄を指名手配し2月4日に別件で逮捕後に自供した。
浜本は報道カメラを足蹴りしたり署内でもイスやコップを投げつけて暴れるなどした。
昭和40年3月29日 広島地裁で死刑判決
同年4月10日 広島刑務所尾道支所から脱獄
翌日に福山市内で逮捕

昭和45年5月12日 控訴取下げで死刑確定
一度は無罪を主張し再審請求するも棄却
浜本の死刑執行日は不明
【読売広島63.1.21~22、2.2、2.5】【中国65.3.30】
【読売65.4.11~12、7.7】【中国70.5.19】
【広島県警察史】

⑤矢部光男

昭和51年6月15日朝、銚子市の民宿の押入れの中で母子が死んでいるのを主人が発見し銚子署に届けた。亡くなったのは主人の息子の妻と長女。
近所の夫婦が町内会の団体旅行で、民宿の主人が留守番を頼まれて離れていた隙の犯行だった。
翌日にこの民宿に宿泊していた矢部光男が逮捕されたが乱暴目的で襲うも騒がれたために殺害し子供までも手にかける短絡的で残忍な犯行だったが、警察から事情聴取された後にマスコミの取材に平然と答えるような冷静さも持ち合わせていた。
昭和52年3月24日 千葉地裁 死刑判決
昭和54年3月15日 東京高裁 控訴棄却
昭和55年3月11日 最高裁 上告棄却
昭和62年9月30日 死刑執行

矢部の生い立ちは中3の時に父親を亡くし、母や兄姉にも犯歴がある乱れた家庭で生活保護を受けながらバラックで過ごした。
そんな生活の中で母親は子供たちに200円ずつ渡し東京に飛び出したのが昭和43年2月。矢部の心は乱れ福島県で叔母に乱暴しようと思いたち二歳の息子が邪魔だと山中に連れていき絞殺したのが最初の殺人だった。殺された二歳は矢部を「みー」と呼び懐いていた。
昭和43年3月21日に福島家裁白河支部で医療少年院送致の決定がされた。
他にも昭和47年10月23日に東京で強盗未遂事件を起こし懲役三年六ヶ月の判決で民宿事件を起こす二ヶ月前に出所したばかりだった。
民宿事件の弁護人はこの時の少年院送致1年7ヶ月の期間が矯正教育するには短すぎると再び罪を犯してしまった理由の一つと裁判で訴えている。
矢部はメガネをかけて普通のお兄さんという感じだが中学の評価でも『温情』という言葉が記されている。
【読売76.6.15夕〜16】【読売77.3.24夕】
【読売79.3.15夕】【最高裁判所サイト】
【沈黙の声26号】【読売京葉77.5.15】

⑥金川一

昭和43年9月11日の朝、熊本市清水町でパン工場事務所に出勤途中の女性が何者かに首を絞められ用水路に頭を入れられ窒息死した他殺体で発見された。散乱したハンドバックからは現金が抜き取られていた。
このあたりは田んぼ道で最寄りのバス停からパン工場までは一キロ近くあるが、通学路にもなっており朝は人通りはあるが目撃者はいなかった。
同日夕方に聞き込みで近隣の救護院を抜け出して参考人として探していた金川一(18)が盗んだバイクで逆走している所を検挙されて本件を自供。「金をくれ」と言ったが逃げられたために犯行におよんだ。
昭和44年12月9日 熊本地裁で5年以上10年以下の不定期刑(求刑無期)
精神薄弱で痴愚のため責任能力が争点だったが「全く責任能力がなかったとは言えない」と判断された。
金川は早くに両親と死別し13歳から精薄児童収容施設で育ち、これまでも窃盗や強盗を繰り返していた。
【読売熊本68.9.12】【朝日西部68.9.12】
【熊本日日69.12.10】
11年後の同じ日に…
金川は昭和54年6月に出所したが、9月11日に球磨郡免田町にて農業Uさんの妻がとうもろこし畑で短刀のようなもので数ヵ所を切られて殺害されているのが発見された事件で、翌日に免田駅前で不審者として取り調べを受けていたが犯行を自供し逮捕された。
昭和57年6月14日 熊本地裁八代支部 無期懲役判決(求刑死刑)劣悪な生育環境と先天的な爆発性性格異常が考慮された
検察は「再犯の恐れが高い」、弁護側は金川が犯行を否認し、「凶器も見つかっていなく心神耗弱」と控訴
昭和58年3月17日 福岡高裁で逆転死刑判決
「二度目の殺人で兆しもみせず更生は無理」

平成2年4月3日 上告棄却
【朝日西部79.9.12】【読売79.9.13】
【裁判所サイト】【朝日西部82.6.15】
【朝日西部83.3.18】
無罪を主張。犯行時間帯が確定判決と金川の主張で約30分のズレがある等を理由に再審請求中【朝日西部06.12.27】

⑦島津新治(古矢)

昭和25年7月20日朝、君津郡亀山村の雑貨商Mさん方にMさんの長男が訪れるとMさんと孫娘が頭や顔を殴打されて血まみれの状態で倒れていて、Mさんは死亡していて孫娘も瀕死の重傷だった。
現場から指紋が検出され前科二犯の島津新治(18)が手配され翌月11日に共犯のM崎(18)と共に逮捕された。
一度は取り調べを受けたが指紋照会が遅れて釈放されての逮捕だった。6歳で父と死別、10歳で母とも生き別れて養子に出されたあとは窃盗などを繰り返して同じような境遇の共犯と知り合った末の犯行だった。
同年11月13日に千葉地裁木更津支部で両名とも無期懲役判決(求刑同)※実名報道
【読売千葉50.7.21~25】【読売千葉50.8.13】
【千葉50.11.14】
昭和58年1月17日朝、荒川区町屋駅の高架下のパチンコ景品商の男性Hさんが頭から血を流して倒れているのを業者が発見して110番した。室内はかなり荒らされており売上金280万がなくなっており強盗殺人事件として捜査が行われ犯行日時は16日の夜と推定された。
事件から12日後の28日にHさんの知人の古矢新治が逮捕された。犯行当日に現場付近で目撃情報があることと古矢の衣服からHさんの血痕が検出されたのが決め手だった。
競輪などでサラ金から200万の借金があり、被害者からは「シマちゃん」と呼ばれていた。旧姓は島津で33年前に強盗殺人事件で無期懲役を言い渡された少年が再び同じような罪を犯した結果だった。
昭和59年1月23日 東京地裁 死刑判決
(一審判決時には島津姓に戻っている)
昭和60年7月8日 東京高裁 控訴棄却
平成3年2月5日 上告棄却
同年2月26日 判決訂正申立棄却
平成10年6月25日 東京拘置所で死刑執行
【読売83.1.17夕】【読売83.1.29】【読売84.1.24】
【読売85.7.8夕】【裁判所サイト】【読売98.6.26】
【集刑257】

⑧牧野正(難波)

昭和45年3月4日北九州市門司区の簡易ホテルの一室に刃物を持った男が侵入し、宿泊していた男性を刺した。寝ていたもう一人の男性は刺された男性が自分の上に倒れ込んできたので目を覚まして起き上がると侵入した男が「バクチで負けた。金を出せ」と包丁を突きつけたが「金はない」断るとその男性も切りつけて逃走した。
最初に刺された男性はまもなく死亡が確認された。
指紋から過去に強盗事件で特別少年院に入所歴のある少年(19)が手配され、同月8日にも久留米市のホテルで女主人に包丁を突きつけて5万円を奪う事件を起こしていた。少年は翌日に福岡市中洲付近にて逮捕された。
昭和45年10月7日 福岡地裁小倉支部 無期懲役判決(求刑同)新聞報道では難波正と実名だった。
【朝日西部70.3.4夕~9】【西日本70.10.8】
平成2年3月12日北九州市門司西新町で自宅に帰ってきた母親が家から飛び出してきた男に包丁で首を刺された、また近くを通りかかった女性も切りつけられて現金入りのバッグを奪われた。男は軽自動車で逃走した。
家の中では刺された母親の娘が首を数ヵ所刺されて亡くなっていた。
目撃された車のナンバーや事件の6日前に強盗未遂事件を起こしていたことから容疑者として浮上し住居侵入の疑いで同月20日に逮捕された。
男は牧野と姓を変えた20年前に強盗殺人で無期懲役を言い渡された元少年だった。
平成5年10月27日 福岡地裁小倉支部で「更生は不可能」と死刑判決
一度は控訴したが同年11月17日までに取り下げて確定
平成21年1月29日に死刑が執行された。
【朝日西部90.3.13~21】【西日本93.10.28】
【読売西部93.11.18】【読売09.1.29夕】

⑨西川正勝(金田)

昭和49年7月6日鳥取市永楽温泉町のスナックでマダムのNさんに乱暴しようとしたが抵抗されてカッとなり包丁で首を切り殺害し2万2千円を奪った少年(18)が6時間後に知人に付き添われて出頭し逮捕された。
他にも大阪で現金12万を盗んだり、鳥取市瓦町のスナックから貯金通帳と印鑑を盗んで15万を引き出すなどした罪にも問われた。
昭和50年2月25日鳥取地裁で懲役5年以上10年以下の不定期刑判決(求刑同)
検察が被告の少年を18歳未満と勘違いし懲役12年を求刑していたミスがあったので改めて求刑のやり直しがあった。
【日本海74.7.7】【日本海75.2.26】
西川は出所後に数多くの事件を起こし再犯した殺人少年の中では極めて悪質な部類であろう
昭和59年6月19日の仮出所後に同年9月10日に鳥取市永楽温泉町の旅館(少年時の犯行現場のすぐ近く)に泊まった際に経営者の妹にナイフを突きつけて「金を出せ」と脅したが逃げる際に被害者と揉み合いになり一週間の怪我を負わせた。翌日にうろついてる所を逮捕された。出所後に更正保護会に入会しパチンコ店などに勤めたが長続きせず知人の家を泊まりあるいていた。
昭和60年1月23日 鳥取地裁で懲役7年の判決(求刑8年)
【日本海84.9.13】【日本海85.1.24】
再び収監されたが、またも事件を起こすことになる。

警視庁広域重要指定119号
平成3年12月に西川はスナックのママを連続して殺害し一連の事件は広域重要指定になった。
1.松江市寺町のスナックママが首を絞められ鋭利な刃物で胸を刺されているのが24日に発見される
2.姫路市坂元町のスナックでママが絞殺されているのが25日に発見される
3.京都市中京区西木屋町でスナックママが首などを三ヶ所刺されて死亡してるのが27日に発見される
4.同じ西木屋町で200メートルしか離れてないスナックでママが血だらけで倒れてる横で男がレジから金をつかんでいる所を訪れたママの長男が発見したが瓶で殴られ男は逃走。
平成4年1月5日に女性落語家の家に強盗に入り、1月7日に大阪市天王寺区で女性をマンションに監禁したが、辛うじて窓から逃げた女性が助けを求めて駆けつけた警察官に逮捕された。
平成7年9月11日 大阪地裁 死刑判決
平成13年6月20日 大阪高裁 控訴棄却
(この時は金田姓)
平成17年6月2日 上告棄却
平成29年7月13日 死刑執行
【読売島根91.12.26】【読売播磨91.12.27】
【読売91.12.28夕】【読売92.1.7夕】
【朝日大阪95.9.12】【大阪01.6.21】
【裁判所サイト】【朝日大阪17.7.13夕】

⑩山地悠紀夫

平成17年11月17日深夜3時過ぎ
大阪市浪速区のマンションから出火。通報により火は消し止められたがマンションの一室で27歳と19歳の姉妹が血を流して倒れており、まもなく死亡が確認された。刺し傷が多数あり殺人事件として捜査本部が設置された。
隣接マンションの壁をよじ登る不審人物の目撃証言からこのマンションから指紋を検出し、事件のあったマンションの知人宅に寝泊まりしていた山地悠紀夫を12月4日に建造物侵入容疑で手配し逮捕。姉妹殺害の件でも追求を続け同月19日に犯行を自供した。
平成18年12月13日 大阪地裁で死刑判決
控訴したが山路本人が取下げを強く望み平成19年5月31日に取下げて死刑が確定した。
山地には16歳の時に母親をバットで撲殺して岡山の少年院に3年入所していた過去がある。
小学生の時に父が亡くなり小中は学校でいつも一人でイジメを受けて不登校気味で家ではゲームばかりの日々だった。母親を殺害した時の興奮と快感が忘れられなかったと再犯時に証言している。

平成21年7月28日に大阪拘置所で死刑執行された。
【読売05.11.17夕】【読売05.12.5】
【読売05.12.19夕】【朝日06.12.13号外】
【朝日大阪07.6.2】【朝日大阪09.7.28夕】

以上が判明している少年時代に殺人前科前歴がある死刑囚10人になる。冒頭に触れたように戦後約880人いる死刑囚の約1%ということになるが、ここでは多いか少ないかの議論はしない。
致死罪の前科まで範囲を広げても数人増える程度である。

協力:折原臨也リサーチエージェンシー様


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?