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【冤罪】木間ケ瀬事件 死刑から無罪へ

少年事件には冤罪が多い


「否認すれば牢屋に入れる」「高校なんていかせねえぞ!」
これは昭和の時代の強面刑事の取り調べではなく、つい数年前の高井戸警察署の万引き事件での中学生への自白強要事件(リンク先日本経済新聞)
黙秘権も告知せずに、結局は厳しい取り調べを受けて一時は自供した中学生の少年二人には事件に関与する証拠は認められなかった。(この時の署員二人は処分された)
有名な冤罪事件で昭和20年代の二俣事件、幸浦事件、財田川事件など、アリバイのない目星を付けた少年を捕まえてきては自白を強要するこのやり方は60年70年たった現在でも変わらないということか?…
その中の一つで冤罪事件の中でもマイナーな木間ケ瀬事件を取り上げたい。

事件概要

昭和25年5月7日未明、千葉県東葛飾郡木間ケ瀬村(現:野田市)にてブローカー業を営むFさん宅に何者かが侵入し、Fさんとその妻、子供二人を頭を鈍器で滅多打ちにし、紐で首を絞めて殺害し現金二千三百円を奪って逃走した。
内側から鍵がかけられていたのは一家心中と思わせるための工作で、発見後にすぐに捜査が開始され怨恨、痴情、物取りなど様々な方向から40人の捜査員が聞き込みをしてまわった。
しかし、犯行現場は人里離れた場所で目撃者もおらず、指紋や足跡もなく、はやくも迷宮入りの様相だった。

逮捕された少年

捜査の対象は約600人におよんだ。
その中から同年11月21日に窃盗未遂で少年が逮捕された。少年の名は本田昌三(19)で厳しい取り調べにも本件の強盗殺人事件は否認を続けた。
千葉地裁松戸支部で窃盗未遂の公判が開かれたが、翌年の昭和26年2月26日に何故か釈放され、釈放されたと同時に木間ケ瀬での強盗殺人容疑で逮捕された。
その後に拷問、自白の強要により逮捕から40日目にとうとう犯行を自供した。
本田は東京都荏原の出身で、戦災により千葉県に一家共に引っ越してきていた。
被害者と同じヤミ屋をやっていたが、真面目に働きたいと靴会社に就職。会社の金を使い込んだことが犯行の理由とされた。
当時の新聞では「○○警部の第六感ピタリ」などとお手柄が書かれていたが…

裁判で死刑判決

「脅そうと思ったが騒がれたのでナタで殺した。ナタは井戸に捨て、金を奪い借りた自転車で逃げた」という自供により本田は同年4月12日に強盗殺人容疑で起訴された。
本田は検察の取り調べや裁判で自供を覆し無実を主張し拷問があったと訴えかけたが昭和29年12月1日に死刑が求刑された。
ここから色々ある。被害者の頭部の鑑定写真の張り間違いが発見されたり、凶器の形について鑑定人で意見が割れたり、更に月日が経ち昭和32年7月に倉田弁護人が長期拘留は人権侵害だと保釈を求めたり(実際に保釈が認められた)とこの時すでに起訴から6年が経過していた。
判決は昭和33年9月12日千葉地裁松戸支部で死刑判決
本田は一瞬顔色を変えて、傍聴席の姉は悲鳴と共に倒れこんでしまった。
本田が金に困っていた。自供に任意性がある。現場検証と本人の自供が一致していることが判決理由だった。
本田は閉廷後にただちに拘置所に収監された。

無罪を勝ち取った倉田弁護人と本田

これまで一貫して無罪を主張していた倉田弁護人は死刑判決後に即日控訴。本田も「私は絶対に無罪だ。無罪になるまでがんばる」と記者に答えた。
東京高裁では現場検証2回と19回の公判が開かれた。
倉田弁護人が提出した拷問の記録を記した「拷問日記」もはじめは検察官は渋っていたが、同意し証拠として採用されたこと、凶器とされたナタと被害者の頭部の傷(鈍器のようなもので殴られた痕)は一致しない、逃走に使われた自転車を貸した夫婦が「貸したのは事件より半年以上前」と証言したこと
などが認められ、長期にわたる拘置後に行われた自白には任意性がなく証拠能力もないことを理由に昭和36年5月30日に一審の死刑判決を破棄し無罪が言い渡された。翌月13日に検察が控訴を取り止めて実に10年ぶりに自由の身となった。
拘置所から出た本田は父親とがっちりと固い握手を交わした。

その後

当時の刑事保証額の一日の最高額は400円で保釈期間を除く3414日分の計136万円を刑事保証額とする決定を下した。
決定理由は「もっとも大事な青春時代を獄中で過ごさなければならなかった損失は大きい」
一方無罪確定後の刑事部長は「検察が控訴しなかったのは残念。捜査には間違いはなかったから再捜査はしない」と記者に答えた。

最後に本田昌三さんの言葉で記事を終わりたい
「こんな悲劇は私だけでおしまいにしてもらいたい」

参考資料:引用元
【死刑廃止の研究】【読売新聞千葉版】


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