犬の絵

 (鴇沢と昴)



昴の携帯電話が壊れた。日に何度も電源が落ちてしまうのだという。
 最初はそれほど気にしていなかったけれど、さすがに使いたいときに使えないことに焦れたらしく、症状が現れて一週間ほど経ってようやくショップへ行った。昴は意外と、自分のことは面倒がる。

「スマホって頼りない感じ」
 何年も前の二つ折りの携帯電話から、板状のスマートフォンに機種変更してきた昴は、手のひらにそれを載せてつまらなそうに言った。
「そう?」
「んー。後ろのポケットに入れといたら割れそう」
「そう簡単には割れないよ」
 ぽけっと、の響きがかわいかったので少し笑いながら言った鴇沢に、昴は納得のいかない様子で首をかしげている。
「あと、データ移せないって言われた。前のやつ古すぎて」
「そうなんだ、大事なデータも?」
「んー。電話帳は平気だし、大して使ってなかったからいいんだけど。実家の犬の写真がちょっと残念かな。……あ」
 そこでふと思い出したように、昴が鴇沢の顔を見上げた。
「うちの犬、お前に似てるんだよ。見たっけ?」
「えっ、見てない」
 嬉しそうに破顔した昴は、「ほんとほんと」と言いながら自分の手帳を開く。
 ペンを持つ手を、鴇沢はじっと見つめた。
 昴の、お手本みたいにきれいなペンの持ち方が、高校生の頃からとても好きだ。もちろんペンを持つ手も。
 少し血管の浮いた、指が長くて節の大きい手。斜め後ろの席になったとき、どれだけ見つめていたか知れない。
 あの頃は知らなかった温度や手触りを、今の鴇沢は知っている。鴇沢よりずっと体温が高くて、夏でもさらさら乾いているのだ。
 昴はその手で上機嫌にペンを走らせ、薄い紙の上に線を引いていく。よどみのない筆致をじっと見つめ続ける鴇沢は、昴が絵を描く間ひとことも口をきかなかった。
 きけなかった、というほうが正しいかもしれない。
 昴は、犬と言った。でもこれって。
「できた」
 満足げに言い、昴が手帳を見せてくれる。
 ずっと手元を見ていた鴇沢は、その「犬」が描かれる様をつぶさに観察していたけれど、出来上がった絵はどの角度から見れば犬に見えるのかもわからなかった。
 鴇沢は返答に困りながら、そういえば昴は、高校の頃から美術の成績だけは今ひとつだったと思い出す。他は何でも出来るのに。
「うん……」
「な? 目は黒いんだけど丸くてきらきらしてるし、すぐしょんぼりするとこも似てる」
 ああ、そこが目なんだ。鴇沢は懸命にその絵を凝視していたが、嬉しそうな昴の声に視線を上げた。
「かわいいんだよ。俺のこと大好きだし」
 目を細めてそう呟いて、昴が手のひらを伸ばしてくる。鴇沢がじっとしていると、その手は犬を撫でるみたいに鴇沢の頭を撫でて離れて行った。
「そうだ」
 昴がスマートフォンを取り上げ、不慣れな様子で操作して鴇沢にレンズを向ける。
 鴇沢が慌てる間もなくシャッター音が響き、いたずらっぽく笑った昴は画面を見せてくれた。驚いた顔の鴇沢がそこにいる。
「い、犬のかわり?」
「バカ、違うよ」
 昴が呆れたように鴇沢を小突き、「ちょっとずつ大事なデータ増やしてこうと思って」と呟いた。
 昴にとって大事なもの、に数えてもらえたことが嬉しくて、鴇沢は思わず笑う。
すかさずもう一度、シャッター音がした。

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