星を繋ぐ
(鴇沢と昴)
家の玄関ドアに近付くと、中から温かい気配や料理の良い匂いが漂ってくる。今日は魚を焼いているようだった。
鴇沢はこれまでそんな幸福に縁遠い人生を送ってきたので、未だにいちいちどきどきしてしまう。
早く家に入りたくて急いで鍵を差し込もうとしたところでドアが開き、中から昴が顔を出した。驚いて目を瞠ると、彼はいたずらが成功した子どもみたいにあどけない顔で鴇沢を迎えてくれる。
「た、ただいま……びっくりした、今開けようと思ってたから」
「おかえり。今日すげー早く起きてさ、窓の外見てたら帰ってきたのわかったから、ドアの前で張ってた」
素直に感想を述べると恋人は満面の笑みになり、ドアを大きく開けた。中から漂ってきていた焼き魚の匂いが、いっそう強くなる。寒さに強ばっていた体からゆっくり力を抜いて、鴇沢は中に入った。
ほうれん草のごま和え、ねぎの入っただし巻き卵、焼いた塩鮭、豆腐とわかめと油揚のみそ汁。そして炊きたての白いごはん。
食卓に並べられた出来たての朝食を前に、鴇沢はきちんと手を合わせて「いただきます」と頭を下げる。
「召し上がれ」
満足そうにうなずいて、テーブルを挟んで向かいに座った昴も箸を取った。
「この魚、すごくおいしい」
「あ、やっぱ? 昨日いつもと違うスーパー行って来てさ、すげーうまそうだったから買ってきた」
ぱっと表情を明るくして、昴が弾んだ声を上げて頷く。
「そうなんだ。遠いとこ?」
「いや、むしろいつものとこより近いかも。西通りのほうなんだけど知ってた? 住宅街の真ん中にぽつんとあって小さいとこなんだけど、野菜と魚がめちゃくちゃ安いんだよ」
「知らなかった。俺、あんまりこのあたり歩かなくて……」
引っ越してきてからずいぶん経つが、鴇沢はほとんど外出をせず過ごしてきた。自分で料理は出来ないし、必要最低限の買い物だけ出来ればいい。
同じ物を食べ続けることも、コンビニ弁当も、スーパーの売れ残りの総菜も、食べるものにこだわりはなかった。昴が来て、作ってくれるようになるまでは。
けれど知らなかったせいで、いままで昴には余計に歩かせてしまっていたのかと申し訳なくなった。鴇沢は恥じ入って肩を竦める。
「そっか。じゃあ今度一緒に行こうな」
けれど昴はちっとも気にしたふうもなく、機嫌良く笑って鴇沢を誘ってくれる。
「うん、行きたい」
頷くと、昴はまた嬉しそうに笑った。それからふっと突然まじめな顔になり、鴇沢が緊張するより早く口を開く。
「あのさ、俺、仕事決まったから」
「えっ! お、おめでとう!」
昴が面接に行く、と言っていたのはおとといのことで、帰ってきてから手応えを聞こうとしてもはぐらかされるばかりで結局どうなったのか聞けずじまいだったのだ。
「どこで働くの?」
「科学館の職員。プラネタリウムの解説もやらせてもらえるみたいだけど、事務とか他の展示の担当もやるって」
「すごい、昴にぴったりな仕事だ。良かったね、おめでとう。お祝いしないと」
「いいよ別に」
照れくさそうに笑って、昴は俯いた。
「でもおめでたいことだから。何か食べたいものある?」
「んー……じゃあ寿司食いたい」
「だったら今晩でも行こうよ」
勢い込んで誘うと、昴は少し驚いたように顔を上げ、丸い目で鴇沢をじっと見つめる。それからふっと視線を和らげると、「わかった、楽しみにしてる」と言った。
「昴は今日、家にいる?」
「仕事に着ていく服とか買いに行こうかなと思ってる」
「それ、俺も行っていい?」
「いいよ。だったら寝て起きてからにしよう」
「ありがとう。買い物のあとお寿司屋さんに行けばちょうどいいね」
ひとり頷いて、頭の中でめぼしい店をリストアップする。昴は光り物が好きだから、あそこかあそこ……、といくつか思い浮かべたところで、昴が「びっくりしたな」と呟いた。
「え?」
「さっき。お前、気軽に俺のこと誘ってくれるようになったなあって。前はちょっとしたことでもおそるおそるって感じだったから。その調子で頑張って」
「頑張るって、何を?」
「いろいろ」
笑顔の昴が鴇沢の肩をぽんぽん叩き、笑顔で食器を下げに行った。
昴と恋人同士になって変わったことのひとつに、昴の寝床がある。
もともと昴は、ここを短期間の仮住まいとするときに購入した布団で眠っていたのだけれど、付き合うことになってからは鴇沢のベッドで一緒に眠るようになった。
――して欲しいこととか、やりたいこととか、ある?
昴にそう尋ねられたとき、鴇沢は困惑した。
そんなの山ほどある。でも叶うはずのなかった願いがつぎつぎに叶ってしまって、これ以上もらったらばちがあたると本気で思った。鴇沢は、人生において不幸と幸福は同量だと思っている。だからこのあとのしっぺ返しが怖いのだった。
また昴に会いたい、というのが鴇沢にとっては人生最大の願いであり、二度と叶わないものだと思っていた。
さらに昴が自分を好きになってくれて、お付き合いする日が来ようとは。そんなの、夢想こそすれ願ったこともなかった。
昴が自分を好きになってくれるだなんてリアルな想像もできず、妄想で汚すときにもシチュエーションの設定としては泥酔の上でとかお情けでとか、そういうものばかりだったのに。
だから鴇沢は昴に問われたときとても困った。言葉に詰まり、何も言えなくなって意味をなさない短音を繰り返す鴇沢に、昴も困ったように首を傾げていた。困らせていると更に申し訳なくなってしまう。
――考えたことない? 恋人ができたらやってみたいこととか、そういうの。
重ねるように尋ねられてもやっぱり鴇沢は答えられなかった。
すると昴は気を取り直したように、「まあ、思いついたら教えて」と言った。「先は長いしな」と呟くように付け足して。
先の話をしてくれるのが嬉しかった。明日にも終わる関係じゃなく、今のところ昴は、鴇沢と一緒に居る未来をちゃんと想像してくれているのだと知って泣きたくなった。
だったらもう少しだけ、欲張ってもいいのかな。
踵を返して自分の寝床へ行こうとする昴の袖を、そっと掴んで言った。
――い、一緒に、寝たい、です。
おずおずと申し出た言葉を聞いて振り返った昴は、満面の笑みだった。
それから今も昴は、毎日鴇沢の隣で眠っている。
鴇沢は同じベッドで好きな人が眠っていると思うとなかなか寝付けないが、昴はとても寝付きがいい。ベッドに潜り込んでしばらくは他愛もない会話をしているのに、五分ともたず返事が怪しくなっていき、鴇沢が意識して返答を遅らせるとそのうちに寝息が聞こえてくる。鴇沢は昴が眠ってからしばらくは眠れないので、その寝息を聞いたり、眠る横顔を見たりしながら考え事をするのだった。
今日、またひとつ、昴に新しい枷がついた。
旅行と称して昴がこの家で寝泊まりするようになったころは、毎日残りの日数を気にして憂鬱になっていたけれど今は違う。表札にもきちんと昴の名前があるし、先日ようやくすべての手続きが終わって、昴の公的書類の住所もここだ。今度は仕事も決まり、昴は本当に着々とここで暮らす足場を積み上げていっている。
自分が何か大きなへまをして嫌われないかぎり、昴はずっとここにいてくれる。
それはとても幸せなことのはずなのだけれど、心のどこかにはやはり不安がある。
「大きなへま」をやらかして嫌われる日のことを、ずっと案じている。
昴が先のことを考えてくれている、ということも、昴がちゃんとここで腰を据えて暮らす準備を重ねている、ということも、鴇沢が過ちを犯さないことへはなんの補償にもならない。
好きな人に好きになってもらうことはとてつもなく難しいことだが、さらに好きで居続けてもらうことはもっと難しいことだと、鴇沢はこうなって初めて知った。
栓のない考えに浸っていると、昴が小さなくしゃみをひとつした。寒いのかもしれない。
掛け布団を昴の首もとに合わせて引き上げた。羽毛の上から昴の肩をとんとん優しく叩き、鴇沢も目を閉じる。
同じベッドにいても、抱き締めて眠ったことはまだない。
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
「ん。おやすみ」
「おやすみ」
昴の、初出勤の日だった。朝七時半に出発した昴をマンションのエントランスで見送った。それから鴇沢は部屋に戻り、眠るためにベッドへ行く。一人でこのベッドに眠るのは久しぶりで、こんなにも広かったかと驚いた。でもこれからはまた毎日こうなのだ。
昼間働く昴と、夜に働く鴇沢では生活時間がまるっきり反対になってしまう。
今日も深夜と早朝のはざまの時間に鴇沢が帰宅すると、昴はまだ眠っているところだった。
昴が起きるまで鴇沢も一緒に寝ようとしたが、途中でベッドに潜り込んだりなんかしたら昴の眠りを妨げてしまいそうで恐ろしくて出来なかった。昴は寝付きがいいけれど、眠りはそれほど深くない。
それでもそこから離れるのは惜しく、ベッドの傍らに佇んで穏やかな寝息を立てる昴の寝顔をじっと見下ろした。
そのとき鴇沢は、自分のいるべき位置はやっぱりこっちなんじゃないのか、と思った。
昴の隣で安らかに眠るのではなく、少し離れた場所から昴の知らないときにこっそり見つめる。高校のころ、ずっとそうしていたみたいに。
一方通行の想いは、報われないかわりに楽しかった。嫌われたらどうしよう、なんていう考えに悩まされることもなく、ただ黙って見つめているだけで嬉しかったし、ときどき言葉を貰えると心の底から喜べた。
その卑屈な考えに、俺はいくつになっても変わらない、変われないんだな、と思うとおかしくなった。
そっと足音を忍ばせてベッドを離れ、鴇沢は昴が目を覚ますまでずっと、パーティションを隔てたリビングでぼうっと過ごしていた。
冷たいベッドで寝返りを打ち、鴇沢は緩慢なまばたきを繰り返す。夜通し起きていたせいか、それとも昴が隣にいないせいなのか、いつもよりずっと早く睡魔がやってきているのを感じる。でもそのかわり、底知れない喪失感があった。抱き締めて眠ったこともないくせに、腕の中が寂しくて物足りない。
でもそれが今まで普通だった。ほんの短い期間の習慣がこんなにも染みついてしまうとは思わなかった。明日からもきっと、この喪失感はずっと続く。
ああやっぱり、あの時欲張るんじゃなかった。もうまばたきはせず、目を閉じたままそう思う。
いつのまにか眠りに落ちても、意識の底ではずっと寂しさを覚えたままだった。
がちゃりと鍵が開く音を聞いて、鴇沢はすぐに立ち上がった。本当は先日のお返しをしようと驚かせるつもりだったが、ドアが開く寸前で怖じ気づいて普通に出迎える。
「おかえり」
「わざわざ出迎えてくれたのか。ただいま」
靴を脱ぎながら昴が手を伸ばし、犬にするみたいに鴇沢の髪をくしゃくしゃ撫でてくれた。くすぐったいけれど嬉しい。ちゃんと乱れた髪を整えてくれてから昴の手は離れて行った。
「鞄、持つよ」
「嫁かよ」
笑いながらも昴は鞄を手渡してくれて、ネクタイを緩めながらリビングへと向かって行く。
「仕事、どうだった?」
鴇沢はその後ろを追いかけて尋ねた。
「今日はまだ何もしてない。説明受けたり施設の案内してもらったり……客としては一回行ってるんだけど、裏側とか見せて貰って楽しかったよ。めし、今から作るから」
「あ、いいよ」
慌てて首を振ると、昴は振り返って「は?」と言った。
「疲れてるだろうし、外で食べよう」
「外食あんま好きじゃないんだよ。全然疲れてないから作る」
「でも」
「しつこいな。言っておくけど俺、仕事で残業しようが朝早く出ようが絶対めしは作るから!」
声を荒げた昴が機嫌を損ねたのはわかったが、どうして怒るのかがわからなかった。鴇沢は青ざめ、昴の鞄を手にしたまま「……ごめん」と謝る。
はーっ、と長いため息のあと、昴はじっと鴇沢を見上げた。蛇に睨まれた蛙みたいに動けない鴇沢に、「ちょっと座れ」と命じてソファを指さす。ぎくしゃくしたまま鴇沢は言われたとおりにした。
昴は鴇沢の隣には座らず、向かい合うかたちで床に座る。
「あのさ」
「は、はい」
昴に見つめられると、鴇沢はいつも緊張してしまう。それは付き合い始めた今でも変わらず、どきどきしてすぐに目を逸らしてしまいそうになるのだった。でも今は、ぎゅっと唇を噛んで耐える。
「俺、明日から早寝早起きするから」
突然の宣言に戸惑い、鴇沢は「早寝早起き……?」と復唱した。昴は頷いて説明をしてくれる。
「夜は十時ぐらいに寝て、そのかわり朝、鴇沢が帰ってくる時間に合わせて起きる。そしたら晩と朝、ふたりで食事出来るだろ」
「そんな、俺に合わせてくれなくていいよ」
自分に合わせて無理をして欲しくない、そう訴えた鴇沢に、昴はきっぱりと首を振った。
「お前のためじゃなくて、俺のためだから。一緒に住んでてもすれ違うのはもったいないし嫌だと思う。俺は鴇沢と、毎日ちゃんと顔合わせたいし、一緒にめし食いたいし、俺が作ったものを食べてほしい」
好きで、息が苦しい。喉の奥に何か詰まったみたいに声が出なくて、すぐには何も言えなかった。
「……だから怒ったの?」
昴がやりたいことを、止めようとしたから。
「うん。俺は自分勝手だから、やりたいことしかやらない。俺が今一番やりたいのは鴇沢と一緒に居ることだよ。そのためにここで暮らすって決めたんだから」
鴇沢が膝の上で握りしめていた手に、昴の手がそっと重なる。高校の頃、ただ見つめたり言葉を交わしたりしていただけのときには知らなかった体温。
やっぱり元の場所には戻れない。これを知らなかった頃になんて戻りたくない。
昴の隣に、ずっと居たい。
「ありがとう」
震える声で告げると、「泣くなよ」とすこし笑った昴が伸びをして口づけてくれる。余計に泣けた。
「俺も、決めた」
睫毛を濡らしたまま、鴇沢はせき立てられるように口を開く。
「何を?」
「昴の休みは何曜日?」
「火曜日だけど」
「じゃあ俺も火曜日に休む。店の定休日を作るよ」
「……おい、今まで休まなかったのに、いいのかよ」
眉を寄せる昴に、鴇沢はぶんぶん首を振った。
「いいんだ。それで、休みの日はいままでみたいに、一緒に寝て欲しい。俺が、昴と一緒に寝たいから休みを作るんだ」
常になく力強い口調で言ったことに驚いたのか、昴はちょっと目を丸くする。でもすぐに顔をくしゃくしゃにして笑って、「そっか」と頷いた。それはそれは嬉しそうに。昴が嬉しいと、鴇沢ももちろん嬉しいし幸せになれる。
「じゃあ今度、休みの日、二人でどっか遠出しよう。そうだ、天文台付き合ってくれるって言ったよな? 名寄のほうの」
そう言った昴が立ち上がって鴇沢の隣に座り直してくれた。
「行きたいところいっぱいあるんだけど、車ないと厳しいかな? レンタカーでもいいけど、どうせだったら自分の車欲しいな」
「あ……ここ、一応ガレージあるよ。ほとんど使ってないけど」
「え、マジで? じゃあやっぱ買おうかな。車でいろんなとこ行って車中泊できるしさ」
楽しそうにこれからの予定をあれこれ提案していた昴は、けれど突然ふっと静かになった。
「どうしたの?」
やっぱり嫌になったんだろうか。不安になって覗き込むと、はっとしたように「いや」と弱くかぶりを振る。
「今までは彼女出来ても、あんまりべったり一緒に居るの、俺は好きじゃなかったなって思って。同棲はしてたけど、部屋は別にしてたしお互いの時間も尊重してたし、あちこち出かけたりもしなかった」
「えっ、じゃあ今の俺って、鬱陶しい?」
「いや、全然。ていうかむしろ俺ばっかはしゃいでるだろ。なんでだろう、お前と一緒にいるのは楽しい。十年離れてたのも勿体ないなって思ってるぐらい……こんなの初めてでちょっと戸惑った。なんでかな? 俺も初恋なのかな」
不思議そうに首を傾げる昴に、鴇沢は言葉を失ってしまった。
こんなに幸せで、どうしたらいいんだろう。
鴇沢はいままでの人生では最悪なことが何度もあったけれど、昴に出会ってからひっくり返ったみたいに幸せばかりで、夢の中にいるみたいだと思う。
「……ずっと、楽しいって思ってて貰えるように頑張るね」
もらっているのと同じ分だけの幸せを、自分はちゃんと返せるんだろうか。
「俺も」
神妙に告げた鴇沢の心配をよそに昴が屈託なく笑ってくれるから、少しぐらいは返せていると思いたい。
「とりあえずお前はもっと図々しくなってくれないと困るよ。未だに遠慮してるだろ」
「えっ、あ、はい……じゃあ、えっと」
呆れたような昴の言葉に甘えて、鴇沢は勇気を振り絞って昴に顔を寄せる。
唇が触れる瞬間、昴が嬉しそうに口角を上げたのが分かった。
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