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土俵を降りる

昨日届いたサンガジャパンに、「現代社会という土俵を降り、自分という山を登る」という名越康文さんの文章がありました。

その中で書かれていたのが「土俵を降りる」ということ。

土俵で闘わなくても、私たちには「降りる」という選択肢もあるのです。

私の人生は、土俵を割られっぱなしでした。

土俵を割るとは、相手の勢いや力に押し切られて負けること

競争社会・能力主義・効率化
現代社会において完全に負け
黒星です

努力はしました。
でもどうやっても勝てない。
それどころか、かえって心と身体を壊しました。

ある時期から私は「土俵」を批判する側になっていました。
こんな世の中がおかしい!って。
ただ叫ぶだけの人。

私は仏教哲学などの日々の学びによって「土俵を降りる」という概念を知り、瞑想の実践によって選択できるようになりました。

現代社会や組織における「土俵」=ルールの存在を否定。
あるいは無視し、反社会的に生きるのではありません。

社会通念やその人たちにとっての「土俵」があることを認めながらも、囚われず、時には降りることも選択できる、ということです。

名越先生も書かれていましたが、「土俵は幻想」です。

私は今、どんな土俵に上がっている?
それは必要なこと?
私を幸せにするもの?


土俵は仮説。
価値観やサンプルのひとつ。
その土俵で闘いを楽しめる人はやったらいい。

でも、別な土俵もある。
そこで勝負しない、土俵を降りるという選択もできる。

そのことを実感できたら、ものすごく自由に心がラクになります。

土俵を降りる方法
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