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反省文と、アンチ・クリスト達の愛(又は彼らへの愛)(9/11)

単純な、あまりに単純な真理・真実というものは、至難にも似るらしい。先の「隻手の声」もそうだ。あまり簡単過ぎて、長いこと誰も理解できなかった節がある。(これには白隠和尚もびっくりだろう…。)白状すると、しばらく「隻手の声」と検索して楽しむ悪い趣味(?)があった。悪癖である。正直、正解なんてどうでも良かった。それぞれの正解でいいじゃないか、と思った。そして、ある時、ちろりと自分の中での解をネットで書いた。時々、書いた。そしたら、段々、同じ様な解答が増えてきた。それを見て、ニヤニヤする僕である。自分の悪徳を自覚し、それを楽しんでいたのだから始末に負えない。(これこそ白隠和尚も呆れることであろう…。)天からの贈り物を、悪徳に用いる。これを、天の戮民という。戮民、とは罪人のことである。自分の悪を恥じる。ギフトをしょうもないことに使うのは、罪だと自覚していなかった。無知故に罪であり、悪となる。悪故に無知ともなろう。同じことだ。これは己の停滞であり、己の類魂(平たく云うと天。グループソウル。)の停滞であった。己の罪は、もしかしたら、自分が思う以上に酷いのかもしれない。才を得て、悦に入るために使う。公共の財を私するのと同じで、僕は竹中平蔵氏と同じ穴の狢なのかと思うと、少し怖くなってきた。
この文章の着地点は、マザーテレサの不信心の手紙への感激である。(だが、そのことについて書いた詩も文章も削除してしまった。)号泣して記した詩を、何故ああも簡単に消してしまうのか、自信の無さは、信仰の無さと軌を一にする。故、両極端となり、中庸がない。清濁併せ吞めず、どちらか一方となる。僕はマザーテレサの信仰の深さを知り、感激し、書かざるを得なかった。それは僕には鮮やかに見えた。美しい信仰に、僕は号泣した。美しい詩ができた。
だが、消した。
(絶望してしばしフテ寝…。)
退院したら、僕はデータのサルベージに必死になるだろう。何故なら、それらは紛う方なく、「僕への愛」だったから。「僕からの」だとおもっていたが、「への」であったと、痛感せざるを得ない。恐らく、薬を服薬しないのも、自らの詩文を平気で削除するのも、自傷的な意味がある。たしかに、副作用としての尿漏れだったり、キツイものはあったが、それが何故自殺的な行為としての削除となるか。「自殺的」である、正に。己の命とも思う文章群だったからこそ、削除した。外堀を埋めたわけだ。
妄想や幻聴が結果するものを見ると、未だ自殺願望を捨てきれていないと思わざるを得ない。
人間不信が酷いのだ。親族にサルベージをお願いしても、詮無いことだ。自分でやらねばならぬ。これは自分自身の命である。自分で自分を救わねばならぬ。これは自殺願望の克服となる。結果、データを救えずとも、その行為は自分自身にとって、絶対的に必要なことだ。
大分、大分話が逸れた。又、別の機会に書く。アンチ・キリストのことは。僕はニーチェは好きだ。このひねくれたクリスチャンが好きだ。彼のキリストへの愛といったら!!「ニーチェの手紙」という本があるが、さもありなん、キリストへの愛でいっぱいだった。世界の目は節穴である。「言葉」のみに反応する。ニーチェの明確過ぎる愛が理解できないとは…。彼は孤独だったろう。賛同する者も、反対する者も、理解する者は皆無なのだから。(だが、自業自得な所も多い。)
マザーテレサの不信仰は、信仰を証明するものだ。ただこれだけで言葉は充分である。なぜなら、マザーの不信心はただの言葉で、行為は信仰の証明だから。これ以上なにか云うべきことが?
食事の時間だ、もう止める。
(信仰の陰影を深める言葉、偉大なる不信心。)

(同日追記)
真の反キリストは、キリスト的外形、外貌の似姿を採る。ニーチェが反キリストだって!!バカ者が多すぎる。

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