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「言葉」への感謝を込めて

言葉への愛が溢れ出し涙がつーっとでたのは、就職活動の最終面接が終わったときだった。愛っていうのは具体的にいうと、あぁ言葉をもっていてよかったなぁ、これまで言葉と諦めず向き合ってきてよかったなぁ、という感情で。言葉に向き合うということは、何かその言葉になる前の「何か」に注目して、それを伝えたい誰かが理解できる範囲にあってかつ、いちばんしっくりくる言葉を自分の中から探す行為だ。

最終面接を受けていた志望先はアパレル関係の企業で、私もその企業が有してるブランドが好きだった。実際に会社に送っていた志望動機にはこう書いた。

私の将来の目標は、自分が社会や自然や友人関係のような大きなものの一部であることを忘れず、自分自身のことをを大切にしつづけられる暮らしをすること。そして、その暮らしができている自分に満足しながら、それを支えてくれる周りの物事・人に心を配りながらいい影響を与えられる人間になること、です。

 「自分自身のことを大切にする」こと。人それぞれにいろんな方法があると思っていて、私の場合は自分のことを受け入れる、ということが自分のことを大切にする方法だと考えている。好きなところも、嫌いなところも、外見も、感情も。受け入れるということは、満足することとは少し違う。人は現状に満足することが難しい動物だと思う。社会は特に、自分にないものを見せるのが上手で、今よりももっと幸せになる方法をたくさん提示してくる。向上心を持っていることはいいことで、みんなが日々今日の自分よりも明日の自分が良くなりたい、という感情でいろいろな行為をしている。

嫉妬、憧れ、コンプレックス、自分を卑下する行為自体が自分を受け入れていないわけではない、と信じている。そんな感情を持っているのも自分らしさ、だから。
受け入れて、変化すればいい。受け入れて、変化して、その一連の全てが自分であるから。

「外見は一番外側の自分の内側」この言葉を教えてくれた友人には私は本当に何かの賞をあげたいくらい、感謝しているのだが
ファッションの近くには人の感情がある。
自分が認識するよりも先にファッションが私の感情を表現していることがある。落ち着きたい時はブラックで統一したり、女性としての気持ちが前のめりな時は露出が増えていたり、春には春らしい色の服を着ていたり。
エゴのような気もするが「自分のことを受け入れることができる」人が増えたらいいな、という私の気持ちは、つまりその人の感情に寄り添うお手伝いがしたいという方向に進み、ファッション業界を志望したわけだ。

最終面接は、「自己紹介をしてください!」という質問に始まり
自己紹介?!となり、しどろもどろな受け答えでスタート切ったわけだが
上に書いたような志望動機を話していくうちに
面接の相手からこんな言葉をもらった。
「佐藤さんは、なんか言葉がけっこう大事なんだね。」

少しスピリチュアルなようにも聞こえるかもしれないが、私の魂みたいなものがどの入れ物に入るか、迷って迷って、誰かによって選ばれたその入れ物が人間だったのだと思う。まだ、私が生まれる前、生まれるかも決まっていない時きっと何にでもなれたんじゃないかな。植物でも他の動物でも、水でも風でも。
私が人間っていう入れ物を選んで、佐藤歩という名前を両親がつけてくれて、今私は私になっているけれど、
何にでもなれる中で、私は言葉を持った人間でよかったな〜と結構本当に思っていて。

言葉と人の認識は深く結びついている。今朝、とても天気が良くて、午前中に同居人と朝ごはんを食べて、毛布を外に干して、歌を歌ってという時間を過ごした。
このわたしのしあわせを認識するためには、
見た景色を頭の中で「朝焼けが綺麗」と認識し、同居人が「ご飯炊いてあるー?」と聞いて朝ごはんを一緒に食べるきっかけになる言葉を聞いて、洗濯機の文字を読んで洗濯モードを「毛布」に変えて、歌詞を見て聞きながら歌う、そんな工程を経て、わたしのしあわせはわたしの元に届く。
言葉がなかったら?想像もできないけれど、きっと今日のしあわせは少し違う形になっていたんじゃないかな。

面接官に「言葉を持って生まれたことが何よりしあわせだな、と感じています。」と伝えると「わかる、わかる。」と返ってきて嬉しかった。
「言葉がその人の内面から考えを通って、組み立てられているのが伝わってきます。」言葉がわたしという人間の特徴をどんどん相手に伝えてくれる。

わたしが好きな言葉はなにか、時間についてどう思うか、大切にしていることは何か、好きなものは何か、わたしにとってファッションは何か。ペラペラ話しちゃうことってある?

そんな質問をもらいながら、わたしが考えていることを誠実に答えようと思って言葉にしていて、その時間は合格点の回答を用意するのではなくて、問いと自分とそれを伝える相手にどれくらい向き合っているのか、という部分を見られていたような気がする。まるで、高校数学の余白が大きい回答用紙に、回答までの思考を全部書いてそれを見られているような、懐かしさがあった。

「話していて楽しかったです!」という言葉をもらい面接は終わったのだが、振り返ると、この大学生活で人からもらいながら、自分が積み重ねてきた言葉たちが面接中にはちらほら出てきていたような気がして、
それらに向き合ってきた時間が許されたような気持ちになって
涙がつーっと出た。

これまで言葉をくれた人たちや、言葉を大切にしている人としてわたしを扱ってくれた人たち、話してくれた人たち、
そして、言葉への感謝を込めて。

いただいたサポートは、私が私の言葉にしたものを「あっよかったんだな」と信じるきっかけにさせていただきます。