過大情報日記 京都にて 前編

僕は夏のある日、不思議な体験をした。

これは僕が京都の街を歩いていたときのことだ。 つれと二人で、車道部分のせいでおいやられて狭くなった白線の内側の歩道を仕方なしに縦1で歩いていた。
話しながら歩いていたので、縦1だとお互いの声が聞こえづらい。でも僕らは車の走っていない車道部分には出ないように歩いていた。
京都のメインストリートのはずれでは車は時々通るくらいのものだ。
車は地球を汚しながら、横柄にぼくらの横を何台か通り過ぎた。

そうしていると、前方に自分の家と思しき場所の前で打ち水をしている婆さんがいた。
まさかの、ホースを使ってない状態でだ。
木でできた、桶に取っ手のついた入れ物から、神社で見る手を洗うやつを用いて水を撒いている。
趣深い。
(この婆さんは京都市新景観条例の煽りを食ってホースを使わせてもらえてないのだろうか。

かつてホースで道に水を撒いてる婆さんに市の人が近づいて
「ホースは青くてカラフルだから辞めてください。京都のいいかんじの木造の、年季の入った小屋に住んでるあなたのようなご老人が文明的な生活はやめてください。ちなみに小屋という表現は敬意を表していっていることをお忘れなく。」
そして「おい、あれを。」と言って
喋っていた市の人の後ろのホワイトカラー二人が今の婆さんが水撒きするのに使っているワンセットを配布する。
そして市の人は
「僕たちはみたいなホワイトカラーは景観を乱すので戻ろう。」と言って帰る。
婆さんはホワイトカラーが実際に自分たちのことをホワイトカラーという人にはじめて会い、それに戸惑っている隙に市の人たちは帰ったのだろうか。

なぜ、僕がこんなストーリーを想像したかというと、婆さんの家の玄関の横にホースがかかっていたのだ。


打ち水をするときの彼女は腰がはっきりと曲がっており、
打ち水をやめて腰を高くした状態になっても、さほど曲がり具合は変わらなかった。
こういう腰の信じられないくらい曲がっているタイプの老人は、2パターン原因がある。

畑仕事や腰を曲げる仕事をし続けてきたから。
あともう一つは、単に若い頃の姿勢が怠惰で良くなかった。

だが、僕ら人間は腰の曲がった婆さんを見て、若い頃の怠惰な様子などは微塵も想像できないように脳が作られてる。
それを想像させないくらいの趣深い感じがこの婆さんのオーラとなり僕らに襲いかかる。

そもそも、人間は90歳をこえたら みんな趣深くなってしまう。
シワがどんどん増えて、自然に還っていってるような顔になっていく。
そして光が顔の側面に当たった時に、光がシワとシワの隙間を駆け巡りめちゃくちゃかっこよくなる。
でも少し画一的な見た目になる。ここだけすごい赤ちゃんに戻っていくときのようだ。

さぁではどうだろう。
この絵みたいな京都の道で水を撒く婆さんは、果たして生活の全瞬間が趣深いのか。これはどうだろう。
朝ボサボサの髪で平べったい布団から、口から息を漏らしながら、起き上がる婆さんは趣深いか?
僕が思うには、優秀な写真家が撮れば多分趣深くなる。)

といった婆さんのうつ水は通行人にギリギリかからないくらいの塩梅で撒かれていた。
この婆さんはきっとかつては打ち水をしていて、人が通った時には打つのを中断していたが、だんだん「別に中断しなくても当たらなくない?」と自分の実力を過信するようになって、やがて通行人が通る状態でも水を撒くことにして、通行人が婆さんの撒く水に少し注意を払いながら歩いていて、
通行人が「あっ、この婆さんの水はいい塩梅で自分のところへは届いてこないな」と思っているときの顔を見るのを楽しむようになったのだろう。

おそらくたまにかかったりしていても、この婆さんへフィードバックが届くことはない。

でも多分観光業という観点ではメリットがあるのだろう。
この婆さんが観光業に貢献しているとしたら、
「水を撒くことで夏の京都を涼しくしているから」
ではなく、「水を撒いてる姿が京都の趣の一部になっているから」だ。
インバウンドの方々も、婆さんのギリギリで当たらない打ち水に対して、観光に来る前の日本のイメージに合わせて脳内で予定調和させて、職人技だと勝手に感じてくれるだろう。

大体、打ち水は夏のむちゃくちゃ暑い日中にやったって
その道にかけられた水からは不快な蒸気しか上がってこない。
なぜか、湿気、熱い道路、かけられた水、そのどれでもない匂いが自分の顔に向かってくる。
これが化学反応の妙か、お医者さんが診察終えた時にする「今他に飲まれてる薬ありますか?」の必要性はこういうことだったんだなとこの時は感じる。

そんなことを思っていたその時だ。
婆さんの打つ水がぼくのツレにモロにかかってしまった。

続く


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