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超高温状態の演奏の圧倒的感動

今日聴いたマーラーの「交響曲第9番」、今日読み終わった「メモの魔力」。どっちにも共通して、とてつもない熱がありました。それを書きたいと思います。

※勢いだけで書いてしまったので、拙すぎる文章になってしまいました。すみません。


結局、熱がいちばん伝えやすい。

「メモの魔力」の最後に、メモで人生が変わるということを改めて書いている。

そこには、前田さん自身が熱を帯びているのが伝わる文、言葉が連なっていた。

それは、リアリティのある体験談があったからかもしれない。それまでの200ページにわたる「メモについて」を読んだからかもしれない。

でも僕は、そうじゃないと思った。

特段、その項目のことが「心」に残った。

それまでのメモについての文章は頭に残る良いものだった。すごくためになる。今後実践していこうと思った。

それでも、心にいちばん残っているのは最後の項目。残るというより、飛び火してくる感じ。

そこには方法論もメモについてもあまり書かれていない。そこにあるのは、前田さん自身の熱がそのまま文章になったようなもの。

それが、まさしく飛び火してくる。飛び火して、読んでる自分の心をも燃やしてくれる。

この項目を読んでようやく僕はメモを本気でやってみようと思った。


ちょっとやそっとの熱じゃ足りない

でも、ちょっとやそっとの熱量ではそんなことは不可能だと思った。

これは、前田祐二という人がいま正に噴火している火山の溶岩のごとく燃え盛っているから起きたこと。その溶岩は周りにどんどん流れ出している。

もし熱量が、火口の中だけで収まってしまっていたら、相手には飛び火しない。

もうその器から溢れでて、あたり一帯を焼き尽くす勢いじゃないといけない。

このnoteは吹奏楽についてのnoteだからそこに繋げると、もう演奏者は死に物狂いで表現者にならなきゃ、伝わってこないってこと。

さっきの火山のたとえで言うとわかりやすい。

演奏者は火山。指揮者はそのきっかけのひとつ、つまり地震に過ぎない。

指揮者が地震を起こしたのをきっかけに、演奏者のそれぞれが噴火する。

噴火して、溶岩でお客さんをも燃やす。

お客さんの心まで燃やすことができたら、その場全体が高エネルギーな状態になる。一体感が出る。ホール全体がひとつになる。

心揺さぶられる演奏を聴いた時って、思わずその世界観に入ったように錯覚すると思う。

その錯覚を引き起こすのが、演奏者の熱狂だとおもった。


マーラーの交響曲第9番

僕が聴いたマーラーの交響曲第9番は、偶然にも歴史に残る伝説の名演だったらしい。

バーンスタイン指揮のベルリン・フィル。

それはそれはすごい熱気で、CD音源にも関わらず、熱気が伝わってくるのである。

なかでも、最後の、本当にいちばん最後の音には物凄い情報量が詰め込まれてるように思った。

「死に絶えるように」と書かれたその音には、バーンスタインとの共演の終わりを惜しむような感情。「虫の息」という言葉がぴったりな細くて今にも終わりそうな音。なかには本当に死を想像している人もいたと思う。

演奏者ひとりひとりの感情が、その音に凝縮されていた。

終わった後には静けさがあって、聴いている人に余韻を残す。

自分も、その場で余韻を深く味わえた。

ふと、聴衆もその演奏に参加させられているんだな、と思った。

聴いていた人は、最後のたった一つの音に囚われて、考えさせられる。だからこそ、拍手はすぐには起きない。

吹奏楽コンクールで、すぐに拍手が起きることが多いし、ブラボーと叫ぶ人もいて、ああちゃんと伝えてていいなぁ。なんて思ってた。

けど、本当に感情を揺さぶって、聴衆をも演奏に巻き込む演奏はそんなことにはならないんだなって思った。

余韻に浸らせることが出来る演奏こそ至高なのではないかとも思った。

演奏者の溢れんばかりの熱気はこういうものをつくりだせるんだなぁと思う。

演奏者が音に熱を込める。

観客に引火する。

観客が演奏に巻き込まれる。

会場全体が一体となる。

そうして、はじめて生まれる感動がある。

僕はこれまで、吹奏楽コンクールという場においてそんなことを経験したことは無い。

それを、今の吹奏楽部で作っていきたいと強く思った。

お詫び。

伝えたいことが溢れて、理性の欠けらも無い文章になったことをお詫び申し上げます。すみませんでした。

でも、ほんとうに熱量の大きさが、余韻を残すのほど感動する演奏を作り上げると思ったから、最後まで理性を働かせずに一度書いてみました。

書いていて思ったけど、熱だけじゃなくて理性も必要だ。うん。

何か伝わるものがあると幸いです。