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13試合目の先発投手

 かつて国鉄スワローズに島谷勇雄という投手がいました。

 1957年から1963年まで7年間在籍し、通算42試合に登板しています。引退後は家業を継いだといい、プロ野球界との目立った関わりはありません。プロ野球の世界に在籍した選手としては「地味」と言って良いかもしれません。

 そんな島谷氏ですが、今日でも語られるプロ野球選手時代のエピソードがあります。

 プロ4年目の1960年9月30日。中日との試合に先発した島谷氏は4回まで無失点と好投します。国鉄は2点をリードしており、島谷氏のプロ初勝利は目前でした。

 初勝利の権利がかかる5回、島谷氏は先頭打者に三塁打を許してしまいます。それでも2点をリードしていることに変わりはありません。プロ初勝利の可能性は十分にありました。しかし、このタイミングである投手が監督が交代を告げるより早くマウンドへ向かってしまいます。

 その投手は国鉄のエース、金田正一

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 前年まで9年連続で20勝以上を記録し、1960年のシーズンもこの試合まで19勝を挙げていた不世出の大投手は、島谷氏が作ったピンチを無失点で凌ぐと、以降のイニングもひとりで投げきってしまいました。試合は2-1で国鉄が制し、勝利投手はリリーフで5イニングを投げた金田氏。この勝利により10年連続の20勝という偉業を達成しています。

 この年の国鉄は10月に4試合を戦いました。つまり金田氏にはこの試合で島谷氏の初勝利を奪わずとも、勝利投手になるチャンスが4試合ありました。しかし、味方の援護が少なく22敗を喫する状況だった焦りもあってか勝手に交代してしまうのです。

 その登板でどうにか20勝を達成した金田氏は、その後シーズン20勝以上の記録を14年連続まで伸ばしています。日本プロ野球史上唯一となる通算400勝を挙げた彼にとって、この試合は重要な意味を持つものだったと言えるかもしれません。

 一方で初勝利の権利を奪われた島谷氏は、結局勝利投手になることが無いままに引退しています。あの試合で金田氏が投げずとも国鉄には残り4試合がありました。しかし国鉄はその4試合すべてに敗れています。うち2試合の敗戦投手が島谷氏。通算42試合に登板し0勝2敗。それがプロ野球の世界で島谷氏が残した成績です。




 もしもあの試合で金田氏がマウンドに上がらなかったら――。

 実際のところその仮定にあまり意味はありません。引退まで勝てなかった島谷氏の実力や当時の国鉄が弱小チームだったことを考えると、島谷氏が続投していた場合この試合に勝てたかどうか微妙と言わざるを得ないでしょう。

 それに、勝ったからといって何かが変わる保証も無いのです。25歳で引退したプロ野球選手の通算成績が0勝から1勝になることに重大な意義があると言い切ることはできません。それより伝説の名投手・金田正一の執念を示すエピソードとして語り継がれている現実の方が、ドラマティックで価値ある輝きを放つことができているようにも感じます。

 けれどもプロの舞台で勝ったことのない投手が先発し、5イニングを投げ切って打線の援護など運の要素も味方にしながら勝つという結果には、何か特別な意味が宿るのではないかとも考えてみたくなります。あの試合で金田氏が投げなかったら10年連続20勝の大記録は達成されなかったかもしれないし、ひょっとすると通算400勝の伝説も生まれなかったかもしれません。それと同様に、島谷氏が勝つことで後にシーズン10勝以上するような、そんな未来があり得たのではないでしょうか。

 繰り返しますが仮定にはあまり意味がありません。色々と想像してみても事実が変わることは無く、結局は起きたことを受け止めるしかないのです。それでも人間は過去に対してあれこれ可能性を考えてしまいます。無数の巡り合わせの中で、「もしも」という仮定の余地に満ちていることこそが野球というスポーツの魅力であるのかもしれません。




 2021年11月6日。プロ野球はこの日からクライマックスシリーズのファーストステージが始まり、セ・リーグは巨人が4-0で阪神を破りました。

 この試合で3打点を挙げたほか、先制点に繋がる送りバントを決めたのは、楽天から移籍して2年目のゼラス・ウィーラー選手でした。

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 明るい性格のムードメーカーで、勝負強い打撃に加えて守備でも内外野をこなしてチームに貢献するナイスガイ。2021年は新加入のエリック・テームズ選手やジャスティン・スモーク選手がシーズン中に帰国する中、欠かせない戦力として活躍を見せました。

 そんなウィーラー選手がトレードで巨人へやってきた際、代わりに楽天へ移籍したのが池田駿投手でした。

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 巨人での通算成績は3年間で62試合に登板し1勝3敗5ホールド。楽天時代に通算106本塁打を放ちベストナインに選ばれたこともあるウィーラー選手に釣り合うとは言い難い成績です。

 楽天に移籍後は21試合に登板してプロ2勝目も手にしましたが、移籍2年目の2021年シーズンには一軍登板が無く、6学年上のウィーラー選手よりも早く引退することになりました。

 ウィーラー選手と池田氏のトレードは「格差トレード」とも言われましたが、結局池田氏はその「格差」をひっくり返すことができませんでした。そして、彼にも「もしも」と仮定してみたくなるような試合がありました。




 新潟県出身の池田氏は地元の新潟明訓高校に進学し、3年夏にはエースとしてチームを甲子園に導きました。甲子園では3試合に投げ、防御率0.50という抜群の安定感でベスト8に進出しています。

 その後は専大、ヤマハと進みました。ヤマハでは「スローガンを貼る仕事をしていた」といいます。品質第一だとか事故撲滅だとか、決められた言葉を大きな紙に印刷し、曲がらないように工場の入口に貼るのです。この繊細な仕事がプロ入りに繋がったと見るか、社会人野球選手に対する社業への期待を垣間見るかは判断が分かれるでしょうか。

 それから2016年のドラフト4位で巨人に指名されて入団します。入団時で24歳の大卒社会人左腕です。もちろん期待されたのは即戦力としての活躍でした。

 その期待通りに開幕一軍に選ばれた池田氏は中継ぎとして安定感ある投球を披露します。交流戦が始まるまで19試合に登板して防御率3.26を記録しました。悪くはない成績です。

 この年の交流戦が始まる頃、巨人は不振に陥ってしまいました。交流戦直前に東京ドームへ広島を迎えた3連戦で全敗を喫するなど4連敗。さらに交流戦が始まってもエース菅野が5回8失点の炎上をしてしまうなど、楽天に勝てず連敗が6まで伸びました。

 連敗の要因のひとつに先発投手陣の不調が挙げられました。菅野、田口、マイコラスという三本柱はともかく、残りの大竹や吉川、宮國といった投手たちのピッチングには苦しいものがありました。その中で池田氏に白羽の矢が立ちます。チームが6連敗で迎えた6月1日の楽天戦でプロ初先発をすることになったのです。

 茂木、ぺゲーロ、ウィーラー、アマダー、銀次……強打者がズラリと並ぶ楽天打線が池田氏に襲いかかります。しかしピアノが特技という池田氏は、冷静に安定感ある投球を見せました。4回まで無失点。打線も4回に2点を先制しています。

 5回もマウンドに上がった池田氏はきっちり投げ切って無失点に抑えました。プロ初先発で5回4安打無失点。ここまでリリーフでも白星が無かった池田氏にとっては、プロ初勝利の権利を手にしたこととなります。

 この試合で勝っていれば「先発・池田駿」はチームの7連敗を阻止した救世主として眩い輝きを放ったことでしょう。そこには「金田正一にプロ初勝利を奪われなかった島谷勇雄」のような、プロ野球人生そのものを変質させてしまうほどの可能性があるようにも思えます。しかしこれは仮定です。現実にはそうならなかった。

 6回裏。プロ初先発の池田氏からマウンドを引き継いだ田原がツーランホームランを浴びました。わずか3球の同点劇。3番手の森福も流れを止められず、巨人はこの試合を落として7連敗してしまうのです。




 プロ初先発で好投した池田氏は、一週間後に2度目の先発をすることになりました。そして、この頃になるとチームの不振は歴史的な深刻ぶりとなっていました。

 池田氏がプロ初先発した翌日、不可解な選手の入れ替えが行われます。抑えを務めていたアルキメデス・カミネロが抹消され、野手のルイス・クルーズが昇格。いわゆる「背広組」による現場介入があったとも言われています。

 カミネロ抹消の当日に9回ツーアウトから4連打で同点とされて敗れるなど、巨人は完全に泥沼にハマってしまいました。オリックスと西武にも勝てず球団のワースト記録を更新する12連敗。そんな状況で池田氏はプロ2回目の先発マウンドに立ち、西武打線と対峙することになるのです。

 池田氏は立ち上がりに金子と源田を打ち取り流れ良くツーアウトを奪いますが、そこから秋山、浅村、栗山という中軸の打者たちに3連打を浴びて先制点を許してしまいます。

 2回は無失点に抑えますが、3回はヒットと四死球で一死満塁のピンチを背負い、栗山とメヒアが連続でタイムリー内野安打。打ち取ったあたりがヒットになる不運も重なった池田氏は動揺を隠せませんでした。なおも一死満塁から7番外崎が満塁本塁打。ここで巨人の13連敗は決定的となり、池田氏はマウンドを降りることになりました。

 2回1/3を7安打7失点。それが池田氏にとってプロ2回目の――そしてプロで最後となる先発のマウンドでした。




 池田氏のプロ2回目の先発についていくつか考えてみたくなることはあります。もしも打ち取ったあたりがヒットにならずアウトになっていたら、とか。もしもバッテリーを組む相手が實松ではなく初先発時と同じ小林だったら、とか。もしも12連敗中というドラフト4位のルーキーではどうにもできない状況以外でのマウンドだったら、とか。詮無いことと知りつつもあの西武戦で勝っていれば、勝てなくとも楽天戦のように試合を作れていれば、わずか5年で引退した現実とは違う未来があったのではないかと思わずにいられません。

 池田氏は西武にKOされて以降リリーフに戻り、ルーキーイヤーは33試合に登板しました。そしてこの年がキャリアハイとなります。2年目は故障で出遅れ27試合の登板に留まると、3年目は阪神戦でサヨナラ満塁本塁打を浴びるなど2試合にしか登板できませんでした。この年のオフにはプロ野球選手として限界を感じ、ヤマハへの復帰を希望する時期があったともいいます。そして翌年に楽天へトレードされることとなりました。

 通算83試合で2勝3敗5ホールド。池田氏がプロの世界で残した成績は「地味」と言って良いでしょう。もしもプロ初先発の楽天戦で勝っていれば、あるいは西武戦のピッチングが違ったものだったなら、彼のプロ野球人生はより華やかになり得たでしょうか。そう考えることに意味は無いし、思うような成績を残せずともそれを先発にまつわる不運のせいにしていなかったであろう池田氏に対して失礼でもあります。

 しかしそれだけの特別な力を持った白星も確かに存在するのだと、そう主張してみたい気持ちには抑えがたいものがあります。島谷氏や池田氏、他に数多くの特別な白星に手が届きかけ、ついにそれを掴めなかった数多のプロ野球選手たち。運命の歯車が違ってその白星が彼らの手に渡っていたのなら、日本プロ野球の世界の形は現実と全く違うものになっていたのではないか?荒唐無稽な妄想です。しかし、巡り合わせの狂いでいつまでも連敗してしまうプロ野球の難しさを、それでも常に勝利を欲する大勢の人々を、その中でも後輩の初勝利を奪ってでも白星を欲した400勝投手の執念を考慮したとき、多少の説得力を感じられる気がします。

 新潟明訓高校時代の池田氏を取り上げたある新聞記事には、ピアノ演奏で得意な曲はベートーヴェンの『熱情』とあります。ベートーヴェン中期の最高傑作のひとつに数えられるピアノソナタ。作曲家の故・石桁真礼生氏はこの曲の各楽章を「苦悶・静かな反省・勝利の歌」と評したといいます。

 プロ野球選手・池田駿は苦悶しました。静かな反省もあったでしょう。勝利はどうだったか。少なくとも先発として特別な白星を掴むことはできませんでした。では、野球とピアノ演奏が得意なひとりの人間・池田駿はどうか。その戦いはまだ、これから先の地平に長く続いています。

 様々な巡り合わせの中で無数の「もしも」があります。その「もしも」を掴めない、鮮烈な光の影に隠れた「地味」でとても「人間的」な選手たちがいます。そのことがスーパースターによる胸のすくような活躍と同じくらい野球を魅力的にしているのではないでしょうか。

 そして、ぼくはそんな彼らが特別でなくとも勝利する姿を見たい。スーパースターになれない人間も輝くのだと確信したい。マウンドに別れを告げた池田氏に夢を託すのはお門違いかもしれませんが、これから先の苦悶と静かな反省に満ちた人生に勝利を見つけられることを願っています。12連敗しても13試合目がやってくる。それが野球であり、人生なのだから。

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