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【プロ野球】もうこれだけがすべて 生きるための一芸と失う恐怖

《自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが「ユーティリティプレイヤー」、「何でも屋」で、それでもこの世界で食っていける。「レギュラーになる、エースになる」だけではない》

 日本ハム、広島、巨人と3球団を渡り歩き、プロ野球選手として19年間の現役生活を過ごした木村拓也氏。引用したのは彼が引退直後の2010年にNPB新人研修で講義した際の言葉です。

(講義の内容はこちらを参考にしました)

 自身で語っている通り、木村氏は高校時代に4番キャッチャーとして活躍した選手でした。しかしドラフト外で入団したプロ野球の世界では順風満帆の船出とはならず、外野手に転向します。その後は内野もこなすようになり、打撃でもスイッチヒッターに転向。最後は繋ぎ役の2番セカンドとして引退しました。

 投手以外のポジションを全て経験し、アテネオリンピックの日本代表にも選ばれるなど数多くの活躍を見せた木村氏。そんな彼を象徴するプレーと言えば巨人に在籍していた2009年9月4日のヤクルト戦が挙げられます。

 延長にもつれたこの試合で、巨人は加藤健捕手が頭部に死球を受け交代。一軍にいる捕手登録の選手が全員ベンチに退くという緊急事態に陥りました。

 その窮地を救うべくマスクを被ったのが捕手としてプロの世界に足を踏み入れた木村氏。このケースと同じくチームの緊急事態に捕手を務めた広島時代以来実に10年ぶりに捕手として出場し、3投手とバッテリーを組みながら1イニングを無失点に抑えました。

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 木村氏はその2009年に自身初となる日本一を経験して現役を引退。巨人でコーチに転身して第2の人生が始まりました。冒頭に引用した講義は現役を引退したばかりの彼が、レギュラーになれる選手もなれない選手も入り混じったルーキーたちを前にプロ野球選手として生きていく心構えを語ったものです。

 この講義から1ヶ月後、木村氏はくも膜下出血により帰らぬ人となりました。プロ野球の世界で生き残るためにあらゆる手を尽くした木村氏。彼が指導することで生きる術を手に入れられた選手もいたはずです。それが道半ばで潰えたことを思うとやりきれない気持ちになります。

 もう木村氏による後進の指導は叶いません。だからこそ生前の彼が語った力強いメッセージは重要性を増します。その講義は冒頭の部分から以下のように続いて締めくくられます。

《巨人の藤田宗一投手は、中継ぎ登板だけで自分と同じ歳までやっている。それで飯が食える、それがプロ野球。「俺が一番うまい」と思って入団して、一番得意だったことがうまくいかない。それもプロ野球。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に、自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか》




 全員がレギュラーやエースになれるわけではないプロ野球の世界。その中で木村氏のように自分の可能性を探った時、様々なポジションや左右両打席をこなした彼ほど器用な選手ばかりでもないでしょう。もっと限定的な「一芸」に命運を託すしかない選手もいます。

 直球に威力がある選手。連投に耐えられる選手。打撃が勝負強い選手。守備が上手い選手。そして、足が速い選手。

 「一芸」で自分が生き残る場所を切り開いた選手の代表格として外せない人物がいます。

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 「代走の神様」こと鈴木尚広氏です。

 福島県立相馬高校から1996年のドラフト4位で内野手として巨人に入団。しばらくは故障も多く活躍の機会に恵まれませんでしたが、5年目の2001年に外野手へ転向して翌年に一軍デビュー。2003年から7年連続でチーム最多の盗塁数を記録するなど、快速を飛ばしながら長期に渡って活躍しました。

 決して足だけの選手ではなく、プロ入り後に試行錯誤の末にスイッチヒッターとなった打撃では2008年に270打席で打率.304を記録。守備でも同年にゴールデングラブ賞を獲得しています。それでもアレックス・ラミレス、高橋由伸、谷佳知、亀井善行、松本哲也、長野久義と実力派の外野手が揃うチーム事情もあり、スタメンの機会は減っていきました。

 実力があってもレギュラーになれるとは限りません。しかし鈴木氏は投げ出すことなく、代走という仕事で活躍を続けました。

 彼の現役時代を見ていた人ならば、あの独特の存在感が脳裏に強く刻まれていることと思います。それは本来なら印象のように抽象的なものを表現しない数字からも読み取れます。

 鈴木氏が引退した2016年まで5シーズンの盗塁に関する成績を見てみます。

2012年 16盗塁2盗塁死 成功率88.9%
2013年 13盗塁3盗塁死 成功率81.3%
2014年 11盗塁2盗塁死 成功率84.6%
2015年 10盗塁1盗塁死 成功率90.9%
2016年 10盗塁0盗塁死 成功率100%

 現役引退のシーズン(当時38歳)まで代走中心の出場で二桁盗塁を続けたこと、現役晩年に失敗を減らし成功率を向上させ続け、最後には成功率100%でシーズンを終えたこと(現役ラストプレーはクライマックスシリーズの悔しい牽制死でしたが……)など、彼の凄さがわかりやすく伝わります。

 そして、次第に盗塁数が減っていることすらも彼の凄さを表現しているのではないかと思います。

 減少の要因は出場試合数の影響(特に2016年に原辰徳監督の後任となった高橋由伸氏は経験の少なさから彼の運用に苦戦しました)など複合的なものですが、「そもそも走る必要が無くなった」という理由もあるでしょう。

 代走として厳しいマークを掻い潜りながら盗塁を成功させ続けた結果、各チームのバッテリーは鈴木氏が走らずとも塁上の彼との勝負に神経をすり減らすようになりました。鈴木氏が一塁にいるだけで本来向き合うべきバッターへの集中力を欠き、巨人に有利な状況が生まれるのです。

 鈴木氏自身もインタビューでこのことについて語っています。

《常に勝負することがチームにとっていいかと考えると、別のような気がします。自分がチームにいた意味として、当然、盗塁は大前提としてありました。でも、それだけではありません。相手バッテリーにプレッシャーをかけて、バッターに有利な状況をつくることも重要です。そう考えるようになってから、代走として自分のステージがひとつ上がった感覚はありました。『1点もぎ取ってこい』と送り出されるなか、盗塁だけがすべてじゃない。ただ走るだけでなく、主観と客観を持って総合的に判断していました》

(引用元はこちら)

 鈴木氏は20年の現役生活で一度も規定打席に到達しませんでした。それでいて一塁からリードするだけでもチームに貢献するという、ある意味レギュラーになるより難しい境地へ自らの「一芸」で登りつめました。

《僕のノウハウを教えても超えられない》

 鈴木氏がテレビ番組のインタビューで語ったこの言葉はネットで弄られがちですが、実に正しいものだと言えるでしょう。




 実際に鈴木氏が引退した後の巨人で彼を超える代走の切り札は現れていません。

 鈴木氏が引退した翌年の2017年、当時の高橋由伸監督は重信慎之介選手を代走で積極的に起用しました。しかし、中日の岩瀬仁紀投手がプロ野球記録を更新する950登板を達成した8月6日の中日戦で走塁ミスにより試合を終わらせるなど、単純な脚力以外の部分で実力不足を露呈し定着には至りませんでした。

 他にも2012年のドラフト2位で入団した「犬より速い男」大累進氏(今は違う苗字とのことですね)や鈴木氏に師事し2016年からの2年間で三軍ながら計70盗塁を記録した高橋洸氏など、俊足を武器とする後輩選手は何人もいました。その中の誰一人として鈴木氏を超えられなかったのです。

 しかし、鈴木氏も手にできなかった「足のタイトル」を獲得した後輩が現時点でひとりだけいます。

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 2011年のセ・リーグ盗塁王を獲得した藤村大介氏。

 小学生の頃の作文に「ジャイアンツのドラフト1位で入団してホームラン王と盗塁王を獲る」と書くなど幼少期から巨人ファンだった藤村氏は、2007年の高校生ドラフトで本当に巨人から1位指名され入団。

 彼に期待されていたのはやはり脚力でした。入団から3年間は一軍出場が無く二軍で経験を積みましたが、その当時の盗塁に関する成績は以下のようになっています。

2008年 3盗塁3盗塁死   成功率50.0%
2009年 10盗塁4盗塁死 成功率71.4%
2010年 17盗塁15盗塁死 成功率53.1%

 この3年間で二軍での通算盗塁成功率は57.7%です。お世辞にも高いとは言えません。二桁の盗塁数を記録できる脚力があっても技術は追いついていませんでした。それでも多くの盗塁死を記録しながら走り続けた背景には、失敗を恐れず成長してほしいという二軍首脳陣の思いがあったことでしょう。

 そして4年目の2011年に一軍昇格。5月10日の横浜戦で代打としてデビューすると、同月13日の広島戦で初めてスタメン出場し初盗塁を記録。ちなみに初安打を記録したのはその翌日のことでした。

 統一球導入による極端な投高環境や前年の盗塁王・梵英心氏の故障離脱もありリーグ全体の盗塁数が激減する中、藤村氏は28盗塁とリーグで唯一20盗塁を超え盗塁王を獲得。作文の内容をまたひとつ現実にしました。

 巨人もこのシーズンは統一球の影響を被り、小笠原道大氏ら主力選手が打撃不振に陥っていました。2番の藤村氏が盗塁を決め、3番に座りこの年首位打者となった長野選手がタイムリーを打つくらいしか得点の期待ができない時期もあったと記憶しています。

 とはいえ藤村氏自身も文句無しの大活躍という成績ではありませんでした。407打席に立った打撃では打率.222で0本塁打。出塁率も低くOPSは.507と当時の投手天国以外なら400打席も立たせてはいけない成績です。さらに二塁を務めた守備も俊足の割に守備範囲が狭く、生来の弱肩も相まって安定感を見せられませんでした。

 翌年も藤村氏は109試合に出場。打率.252にOPS.594と相変わらず低レベルとはいえ打撃成績には向上が見られました。しかし、期待された盗塁数は14と半減。それでいて盗塁死は前年と同じ7と物足りない成績です。さらに守備力も大きく改善したとは言い難く、この年の日本シリーズ第4戦ではチームのサヨナラ負けに直結する痛恨のエラーを喫してしまいます。第5戦以降は出場が無く、翌年以降のシーズンでも出場機会はどんどん減っていきました。

 打撃、守備共にレギュラーの実力は無かった藤村氏ですが、盗塁王のネームバリューを考えれば鈴木氏に近い立ち位置で活躍できる可能性もあったはずです。しかし、盗塁王を獲得した翌年の2012年から引退する2017年までの6年間に一軍で記録したのはわずか21盗塁。2011年に1シーズンで記録した28盗塁にも満たないうえ、最後の3年間は通算5試合の出場で盗塁企図すらありませんでした。

 彼が生き残る上であまりに致命的だった盗塁数の減少。このことについて2016年の東京スポーツのインタビューで、当時まだ現役だった藤村氏本人が答えています。

《実は1回タイトルを取って、その次の年ぐらいから他球団からのマークも激しくなり、自分の中で失敗したらダメだという気持ちが強すぎて、スタートが切れなくなった時期がありました。さらにファームに来るともっとなおさら。若い選手も多いですし“成功して当たり前”と見られる。それもプレッシャーになって、なかなかスタートが切れない時期が続きました》

(引用元はこちら)

 “成功して当たり前”というプレッシャーに負けてスタートが切れない。単純に思考がプロ野球選手に向いていないのだと切り捨てることも可能でしょう。しかしここで言う「プレッシャー」とは、その文字だけでは伝えきれない生きるか死ぬか瀬戸際の、壊れかけた吊り橋の上で猛獣から逃げるようなのっぴきならないものであったはずです。

 藤村氏は攻守に未熟でした。それは向上させていくしかありませんが、向上したところでどう考えても作文に書いたホームラン王の夢を実現できる打撃力ではないし、後に背番号を譲り渡すことになる吉川尚輝選手ほどダイナミックな守備ができる身体能力もありません。結局それなりに打って守れる選手になったところで、彼の選手生命を左右し続けるのは足という従来の武器です。

 そのことを本人が誰よりも痛感していました。だから失敗できない。盗塁を決められることが彼のすべてであり、それを失うことはそのままプロ野球選手としての死を意味します。踏み出さなければいずれ死ぬだけの状況だとしても、目の前に明確な死のビジョンが見える状況で踏み出せる人間はそう多くいません。そういった平凡な人間性を超越してこそプロ野球選手だと言ってしまえばそれまでですが、彼らの大半はあくまでただの人間なのです。

 入団から3年の間二軍で失敗を気にせず走り続けた藤村氏は、一軍でもその延長で恐れを知らぬまま走って盗塁王を獲得しました。しかし二軍で失敗しながら盗塁技術を学ぶことはできても、一度手にしてしまった栄誉がもたらすプレッシャーとの向き合い方は自分で見出すしかありません。生きるための一芸と、それを掴んで自覚したが故の失う恐怖。ここにプロで飯を食い続けるために超えなければならない壁があります。




 巨人には現在進行形でその壁にぶつかっているように見える現役選手がいます。

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 木村拓也氏のようにあらゆるポジションを(木村氏ですらなし得なかった一軍登板も!)こなし、鈴木尚広氏のように極限の場面で盗塁を決められる力があり、木村氏に加え藤村大介氏も背負った背番号0でグラウンドを駆け回る男・増田大輝選手です。

 増田選手は2015年の育成ドラフト1位で四国独立リーグの徳島インディゴソックスから入団。ルーキーイヤーの2016年に新しく創設された三軍で存在感を示すと、翌年には支配下登録を勝ち取ります。それでも入団からの3年で一軍出場はありませんでしたが、原辰徳監督が復帰した2019年に転機が訪れます。

 このシーズンに初めて一軍昇格を果たすと、俊足とユーティリティな守備力を評価されて75試合に出場。チームトップの15盗塁(成功率88.2%)を記録し、鈴木氏の引退以降誰も掴めなかった代走の切り札というポジションに座ってみせました。

 続く2020年も積極的に起用され、短縮されたシーズンの中で74試合に出場しています。盗塁死は前年より増えましたが、成功数も多くなりリーグ2位の23盗塁をマークしました。

 しかし、一軍定着3年目となる今年は壁にぶつかっています。10月1日まで47試合に出場しながら7盗塁3盗塁死と過去2年より低水準の成績。バッティングは元々課題とされ打席数も少ないですが、打率.136はこれまでに比べて極端に悪化しています。最大の武器である足を生かせていない焦りと無縁ではないかもしれません。

 今年の増田選手を見ていると迷いや消極性を感じることがあります。まだ一軍デビューから日が浅く生き残るために必死だった頃の彼には見られなかったものです。当時の増田選手はとび職時代に培った度胸もあってか、とにかく自分の武器を発揮しようと多少大雑把に思える部分がありつつもその俊足を繰り出し続けていました。

 2020年7月19日のDeNA戦で内野安打の間に二塁から同点のホームを陥れた走塁はその象徴と言えるでしょう。

(リンク先の動画1:50頃からその走塁)

 自分の前に背番号0を背負っていた吉川尚輝選手の存在もありスタメンの機会には恵まれない増田選手ですが、圧倒的な俊足という「一芸」でチームに勝利をもたらし、自身も育成ドラフトでの入団ながら一軍に定着という栄誉を手に入れました。

 その活躍をある意味で支えていたのは一軍でのキャリアが少ないことでした。彼には経験が無いので一軍で失敗する明確なビジョンも持っていません。盗塁王を獲得した時の藤村氏と同じ状態です。

 しかし一軍で長くプレーすればいずれは失敗します。はっきり言ってランナーとしての増田選手の武器は足の速さと思い切りの良さだけです。瞬時の判断力に関しては並かそれ以下なので、普通にそのことに起因するミスが発生します。

 思いつくものを挙げるとこんなところでしょうか。

(2019年10月22日 日本シリーズ第3戦)

(2020年7月30日 DeNA戦)

(2021年3月12日 オリックス戦)

 日本シリーズの大舞台で大失敗した次のシーズンでも積極的な走塁を見せているあたり、失敗の経験どうこうより単純な判断力の欠如という側面も大きいでしょう。しかし、こうした失敗が積み重なって思い切りの良さを奪っているのではと勘繰りたくなる走塁が見られるのも確かです。

(2021年9月24日 阪神戦)

 木村拓也氏は一番得意だったことがうまくいかないのもプロ野球だと言いました。そんな時に必要なのは生き残るにはどうすればいいか主観と客観を兼ね備えた視点で考える力です。木村氏や鈴木尚広氏にはそれがありました。

 けれどもその力もまた、直球に威力があるとか連投に耐えられるとか打撃が勝負強いとか守備が上手いとか足が速いとか、そういう「一芸」になりうる稀有な才能なのかもしれません。

 増田選手には藤村大介氏が最後まで打てなかったホームランを打てるパンチ力があるし、守備も一軍で武器と呼べるクオリティです。とはいえ走塁という切り札を失えばプロ野球選手としての死に大きく近づく点では共通しています。増田選手も藤村氏のように一芸を失う恐怖の前に屈してしまう可能性があるし、きっとそうなる人間の方が大多数なのです。

 僕は増田選手に目の前の壁を超えてほしいと思っています。端的に言って彼のことが好きだからです。2018年8月11日、青森県弘前市のはるか夢球場で行われたイースタンリーグのロッテ戦に2番セカンドで出場していた増田選手のことは鮮明に覚えています。当時まだ一軍未経験で背番号98を背負っていた彼は、この試合でキレのある動きから好守備を連発し一軍での活躍を確信させてくれました。

 育成から這い上がりレギュラーになれない中でも居場所を掴んだ増田選手にはとても人間くさい魅力があります。けれども今は人間らしさを超えてほしいと願っています。

 失う恐怖の中で守り抜いた「一芸」が現実を変えられると、プロ野球選手・増田大輝に示してほしいのです。

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 最後に、この記事を書く上で脳裏にあったセリフを残しておきたいと思います。

 それは箱根駅伝に挑む大学生を描いた三浦しをん氏の小説『風が強く吹いている』で描かれたものです。

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 箱根駅伝の予選会直前、団結を深めるべく酒盛りをする駅伝部の面々を前に、監督がこんな話をします。

「いよいよ予選会なわけだが……、勝つための秘訣を教えよう」
「左右の脚を、交互にまえに出せ!」
「……そうすりゃあ、いつかはゴールに着く。以上!」

 この言葉を受けた選手たちの反応はぜひ作品で確認していただきたいと思いますが、要するに走るとはこういうことなのかもしれません。

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