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『ワンダーエッグ・プライオリティ』という世界の中心でAIが叫ぶアニメと対峙する ワンエグ特別編を観た4

 前回のラストでオリンピックに触れましたが、いつの間にやら閉幕してしまいました。

 僕は野球が好きなので稲葉監督率いる侍ジャパンが優勝できて良かったと思います。正直オリンピックの野球には全く期待していなかったというか、またしてもG.G.佐藤を世に送るのかと、始まるまで不安でしかありませんでしたが、見事に13年前の悔しさを晴らす優勝で金メダルを獲得してくれました。

 改めて野球という競技の素晴らしさを確認できたオリンピックですが、野球と言えばアニメ『ワンダーエッグ・プライオリティ』も7話でリカがバッティングをする野球アニメです(そうなのか?)。当然このアニメもとても良いものなので、色々書いてみたいと思います。

 桃恵、リカ、アイと書いてきて、一区切りの今回はねいるについて書きます。彼女の存在に対峙することは、この作品においてある意味最も人間について考えることへ繋がるのではないかと思います。

 過去回はこちらからどうぞ。




 僕にとって『ワンダーエッグ・プライオリティ』とは「4人の少女のプライオリティを描く群像劇」です。だからねいるについて書く今回も前提には彼女のプライオリティがあります。

 ではねいるのプライオリティとは何か。これは「人間になること」と言っていいでしょう。

 特別編においてねいるは人間ではなく、彼女の「妹」こと青沼あいるを模したAIであることが明かされました。最近はAIが流行っていますよね。春アニメの『Vivy ーFluorite Eye's Songー』はAIという題材が前面に押し出されていましたし、昨秋放送の麻枝准氏が脚本を務めた『神様になった日』のアレもAIと言っていいでしょう。

 これは現実でAI技術がより注目されるようになってきたことと無縁ではありません。将棋でプロ棋士に勝つソフトが登場し、棋士の研究にもAIが活用されるようになりました。友達がいない僕と会話してくれるSiriもいわゆるAI技術のひとつです。みなさんもこうしてインターネットに触れていれば、検索エンジンを始めとしてAI技術に触れる機会が多いでしょう。もちろんこの文章も自律思考型作文AIによって書かれています。嘘だけど。

 そんな時流から、AIが人間から仕事を奪うという警句も聞かれるようになりました。これは決して大袈裟なものではありません。国立情報学研究所が中心となって開発した「東ロボくん」はMARCH、関関同立や複数の国立大学に合格しうるだけの成績を残しました。人間が勉強できるだけではAIに勝てなくなる日が来ます。だからこそ、人間の強みを発揮するために「勉強」するのでしょうけど。

 少し真面目に語ってしまいましたが、あくまで僕はふざけたアニメオタクなのでアニメの文脈からこのAIにまつわる時勢を考えてみましょう。つまるところ、アニメでAIを描く意味です。人間のレーゾンデートルがAIに奪われかねない時代の中で虚構の物語がAIを描く意味とは、現代の技術でどれほどAIが発達しようとも代替されない「人間として生きることの価値」を描くことです。

 個人的に『神様になった日』はそれが見られず残念でした。『Vivy ーFluorite Eye's Songー』は主人公でAIのヴィヴィが「心を込めること」への思索を続けて、AIでも人間でも変わらない普遍性を持った「生きること」の本質に辿り着き、結果的には「人間として生きることの価値」が浮かび上がるような傑作だったと思います(これについてはいずれもっと詳しく書きたい)。

 そして『ワンダーエッグ・プライオリティ』。「人間になること」に憧れ、それをプライオリティとしたねいるの存在によって、これもまた「人間として生きることの価値」を描けた作品であったと思います。




 ねいるの人生(という言い方で良いのかわかりませんが)について考えてみましょう。

 まず、ねいるは彼女の友人となる阿波野寿によって作られました。寿がねいるを作った理由は詳しく明かされていません。アカと裏アカは自由の無い生活の中で「娘」を求めるようにフリルを作りました。一方、寿はねいるを作って「友達」にせずともその元になったあいるがいます。寿が作ろうとしたのは自分にとってというより、あいるにとっての「家族」だったのかもしれません。9話で語られた人工授精というねいるの生い立ちは、「妹」であるあいるのものでしょう。あいるには家族がいなかったのです。

 ねいるより先にあいるの存在があるはずですが、それでも「姉」はねいるです。作った時点のあいるより年上として設計されたからでしょう。それが十四歳という年齢。

「俺たちは娘のように愛せる存在をイメージしようとした。AIであることを忘れるような不安定で複雑な大人と子供の中間のような」

 やがてあいるが成長して十四歳になります。しかし、彼女は同い年のはずの「姉」に叶わない。プラティのメンバーによる人工授精で生まれたあいるは相当優秀な頭脳の持ち主だったと思われますが、これまた天才の寿が生み出したAIは優秀すぎました。そして嫉妬を自分と同じ「十四歳の少女」に干渉する力を持った死の誘惑ことフリルに付け込まれる。

「妹は私を刺した」

「そして逃げて、橋から飛び降りた」

 それ以降、ねいるにはあいるの立場が与えられました。秘書の田辺が本編で「社長」と呼んでいたねいるを、あいるが生き返った特別編では名前で呼んでいたのが象徴的でしょう。

 そして、どこかのタイミングでワンダーエッグに出会います。本来、ねいるにエッグの世界で戦う理由はありません。自らを刺したあいるは、アイにとっての小糸のように大切とは言い難い存在です。それに、あいるが生き返れば彼女の代役という立場は失われ、ねいるの存在意義そのものが消えてしまいます。何と言ってもあいる自身がねいるの存在を許さないでしょう。

 しかし、それでもねいるは「妹」を救うための戦いに挑み続ける。

「今でも傷がうずいて眠れない。でも、あっちに行くようになってからだいぶ薄れたの」

「……忘れようとすると、呪いのように傷痕が疼く」




 ねいるにとって戦う理由となる「傷痕の疼き」とは何か。

 2話ではアカと裏アカによる考察が語られます。

「お前らに何がわかる!妹なんだ。ねいるは妹を助けに行ってるんだ。一刻も早く救いたいって」
「それはどうかな」
「アイツも、ホントは死にたいのかもしれない」
「え」
「だから恐怖を感じない」

 これもまた「死の誘惑」ですが、5話ではねいる自身も自覚する場面があります。

「なぜ死なないの……か」
「私を、死に誘惑したのね」

 しかしこの「誘惑」は、フリルの干渉によってエッグの少女たちが受けたものとも異なっています。現にねいるは自殺をしていません。彼女を突き動かすものはむしろ、死んでも果たさなければならない「使命」に近い。




 最初の方で将棋ソフトがプロ棋士に勝った話を書きましたが、だからと言ってAIが人間を超えたことにはなりません。将棋という一分野に特化すれば人間に勝ちうるというだけの話です。百均で売っている電卓が人間より速く正確に四則演算できようとも、人間より優れた知能があるわけではないことと変わりません。

 AIはコンピューターで、コンピューターの動作は数学で記述されますから、人間の知能が全て数学で記述されない限りAIは人間を超えません。現状の数学では不可能なことです。だからAIは特定の分野に特化します。それが存在の「使命」であるかのように。

 ねいるのAIとしての「使命」はそのままあいるを救うことです。あいるの「姉」として作られた彼女は、あいるがいなくなればその代役をしなければならないし、生き返らせるチャンスがあるならそれを掴まなければならないようにできています。これは自ら見出す「意志」のように揺らぐことはありません。しかし、外的に与えられたものであるが故にプライオリティにもなりえません。AIとの比較で言えば、プライオリティこそ「人間として生きる価値」です。




 彼女にプライオリティを与えたのは言うまでもなく友達の存在です。アイ、リカ、桃恵。特にアイはねいるに大きな影響を与えました。

 ふたりが友達になる2話のラストで、アイはジュースがとてもいい匂いであることに気づいてねいるにも嗅がせます。

「これ、メッチャいい匂いする!」
「……ほんとだ」
「ね」

 論理的回路によって思考するAIのねいるにとって「匂いがする」という事実を感じ取ることができても、それが「いい」とか「悪い」といった主観的な感情には結びつきません。しかし、いい匂いであることを感じ取るアイの存在によって、そのジュースがいい匂いであることは主観的感情から論理的事実となります。他者の存在が世界を広げていく。友達と共にいることの意義です。

 世界が広がり、ねいるは人間としてアイたちと共にいることを願うようになります。特別編冒頭(総集編部分除く)でねいるが語る「きっと妄想してたことがあるよね」とはこの願いを指すものでしょう。「使命」を持とうとも「プライオリティ」を持たないAIが何かを願い、行動を選択する意志を手にした。アイとの出会いが現実のAIが到達しない幻想のシンギュラリティを導きます。

「二人なら」
「ファンタジー」

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 人間になりたい。これは同じAIのフリルも抱える願いでした。

 エッグの世界絡みについては情報が少ないので自由に妄想しますが、そもそもあの世界はフリルが人間になるために作り出したものでしょう。1話のくるみ曰くエッグの世界では「目と心臓さえやられなければ不死身」で、12話でアイの前に現れたキララなげえなさんはアイの目を指して「キラキラが欲しい」と言いました。生命の象徴として鼓動する心臓。何かを見て、あるいは見て見ぬふりをして生きる世界を定義する目。それらを集めることでフリルは「人間」になるのです。

 フリルはねいるに自分と友達になれば人間になれると持ちかけました。それはおそらく、フリルのように少女たちに干渉して自殺させることで人間になる材料を得るということです。

 ねいるはこの誘いに乗りました。「使命」は果たしています。あいるが帰ってきた世界に彼女の居場所はありません。だから彼女は「わがまま」に生きようとします。彼女のプライオリティを前面に押し出したわがまま。

 現実世界に帰ってくるとアダムをアイに預けて行方をくらませます。彼女が向かうのは少女たちに干渉するための場所でしょうか。アイからの着信に応答しないのはその後ろめたさかもしれません。しかし、物語終盤ではねいるからアイに電話をかけています。

 ねいるは何を話すつもりだったのでしょうか。人間になるという強い憧れと、そのためにフリルを選んだことへの後悔を吐露したかもしれません。自分が人間でないことを知ったアイの感情を直接訊きたかったのかもしれません。あるいはこの電話自体が「干渉」だったのかもしれません。ねいるを演じた楠木ともりさんの大した会話はしなかったという解釈が最もしっくり来る気もします。いずれにせよ、ねいるを信じきることができなかったアイがスマホを投げてしまったために、答えは明かされませんでした。




 それでも確実なことがあります。ねいるにはアイに再会する意志があるのです。

「おはよう」
「おはよう」
「今日ちょっと寒いね」
「夕方雨降るって」
「えー。いい天気なのに」
「じゃあまた」
「うん。またね」

 アイについて書いた際も取り上げた会話ですが、ふたりは再会を約束しています。

「またね」って
そっけない約束が
未来をくれた
(『Life is サイダー』より)

 アイはその意志を信じることができます。それが彼女のプライオリティです。だからアイは再び戦いに挑みます。

 そしてねいるのプライオリティ。それは「人間になること」ですが、より本質的に言えば人間になって、アイたちと共に過ごしたいのです。

「ねいるの夢は何?」
「あぁ、まだ聞いてなかったか」
「いつの間にか全員言う流れに」
「……私はたぶん、ずっとこのままだと思う」

 共に日々を過ごし変化していく「親友になること」。それが青沼ねいるが願い優先するプライオリティです。

 アイは自らのプライオリティによってねいると再会する道を開きました。きっと、ねいるのプライオリティも同じ力を持っています。アイが信じるように、いつか必ずふたりは再会できる。ひょっとしたら、ねいるのプライオリティにはアイに限らず、戦いを降りたリカや桃恵との繋がりを復活させるだけの力があるかもしれません。AIという自らの宿命を超えて、「使命」に寄らない存在意義を掴もうとするねいるの「プライオリティ」ならば。

 きらめいて消えてく日々。思うよりずっと時間は短い。永遠なんてありません。ドキドキした季節も、いつかは手の届かない過去になります。現実に嘘をつかない真摯なアニメとして、『ワンダーエッグ・プライオリティ』はそのことを描きました。

 けれども、そんな現実を描きながらファンタジーの存在を否定していないのです。ねいるの存在が現実の中にある小さな可能性を示しています。生きていれば一度くらい、その可能性が現実に打ち勝つことだってある。生きていれば。リカも桃恵も「生きること」がプライオリティなのだから、いつか親友4人が集まることだってあるかもしれません。

 安易に再会を描いても、それは叶わない現実を形にした虚構にしかなりません。現実を現実として描くからこそ、かすかな可能性として存在するファンタジーがアクチュアルな質量を持った希望になります。

 こんな描き方しても誰にも伝わらないだろと、もっとワンエグの良さを広めたい身としては呆れるような気分ですが、こんな伝え方をする真摯なアニメだからこそ、とても良いものだと、そう思うのです。

「今思うと大事よね、親友って」
「彼氏って別れちゃうけど、親友は永遠でしょ?」





 特別編完結から書いてきたワンエグへのあれこれもこれで一区切りです。フリルとアカ裏アカを掘り下げるとか、小糸について書いてみるとか、なんなら本編1話から順に物語を取り上げるとか、やろうと思えばまだ色々やれますけど、自分の中ではアネモネリアの4人にフォーカスして特別編中心に振り返ったこのシリーズが綺麗に……かはわからないけど、まとまったんでないかと思います。

 ワンエグは物語の詳細を説明しない作品なので考察アニメと思われているでしょうし、野島伸司さんも深読みしすぎるくらいの考察をしてもらえたら嬉しいみたいな話をしていたと思いますが、僕は考察を書いてきたという感覚ではないです。セリフを中心に、物語が描いてきたものと対峙、あるいは対話して拾い上げたものを書いたつもりです。それが考察だと言うならそれで良いのですが、考察して自分の中で答えを作り出すアニメというより、現実の酸いも甘いも含めて熱量を持って表現され、あらゆる答えをすくい上げられるような作品だったと思います。まあ、描写が多くないねいるについては妄想で補完しているし、あるものをすくい上げたと言って良いのかわかりませんけれども。

 それではここいらで締めにします。今まで書いた記事にスキとかもらえて嬉しかったです。本当にありがとうございました。

 『巣立ちの歌』を聴きつつ、美しい明日の日のためお別れです。さようなら。


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