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人が森に向けた、熱意と無意識


この文章は、論文の一部として執筆したものをnoteとして加筆したものを掲載しています。(2023.9現在)

建築やアート、まちづくりなどさまざまな分野において「日本における空間の本質とはなにか?」という問いをよく見かける。

これに真正面から答えることは難しい。そこで、山林大国である日本において欠かせない”自然”というキーワードから、「日本人は空間にある自然をどう捉え、表現してきたのか?」という新たな問いを立てることを通して、考察していきたい。

まず、2つの空間の対比から浮かび上がる人々の意識を取り上げていくことにする。

一時代の熱意が創り上げた杜[もり]、明治神宮

JR原宿駅を出てすぐ左手、明治神宮の入り口にそびえる「一の鳥居」。その背後に豊かな緑を抱えて、訪問者を出迎えてくれる。鳥居をくぐると、それまでの都会のこもった熱気を帯びた空気から一転、森が醸したひんやりとした空気を肌で感じる。この空気のコントラストが、一気に心を現代の大都会から、この杜が作られた当時の時代へとトリップさせるようだ。

明治神宮造営の際、天然更新という手法をとり、杜を造った。天然更新は、明治神宮の造営を担い「日本の公園の父」とされる本多静六がドイツで学んだ手法であるが、大阪にある堺市堺区の仁徳天皇陵古墳ではすでに実現されており、明治神宮のお手本にされた杜となっている。

「林苑構成後はなるべく人為によりて植伐を行うことなくして永遠にその林相を維持し得るもの即ち天然更新をなし得るものたること」

明治神宮御境内林苑計画

「種が落ち、親は枯れても世代交代によって森は維持される。100年後に人工の森が自然の杜と見まがうようになり、しかも永遠に存続する杜を目指した」(注1)という。

これには、さまざまな樹種を計画的に織り交ぜることが必要不可欠であった。

天然更新のための林相の予想計画図。
(明治神宮公式サイトより引用、https://www.meijijingu.or.jp/midokoro/、2023年8月22日閲覧)

しかし神社の木は針葉樹が一般的であるため、当時の首相、大隈重信の反対に見舞われた。しかし、技師たちの熱意によって天然更新の計画が実装され、現在にも壮麗な杜が残っている。
(造営当時は天然更新に100年かかると想定されていたが、実際は100年かからず自然の杜に近いかたちになっているそうだ。)

明治という時代は、長く続いた武家社会から譲位によって、制度的にも心理的にも大きく変化した新時代であったと当時の人々はとらえていた。この新時代の到来を受け入れ、日清・日露戦争を乗り越えた力強い時代精神が明治神宮の杜を永続的に残すという思想に至ったとされる。実際に足を踏み入れてみると、この杜からこの意思をひしひしと感じることができる。

ちなみに「森」と「杜」の違いについて…

「杜」は読みの「もり」が示す通り「森」とほぼ同じ意味を持つ。多数の樹木が生えている一帯のことである「森」という意味ではどちらも同じだが、「森」は自然にできた木々の密集地であるのに対し、「杜」は人の手で植樹された人工林を意味している。特に神社の敷地内にある人工林の意味合いが強く、御神木のことを「杜」と表記することもある。

weblio辞典より引用

厳しい自然と共存した歴史が生み出した、大西公園

長野県下伊那郡大鹿村にある大西公園は、中央構造線という断層の真上に位置し、南アルプスの山々に囲まれた公園だ。公園横に大きくそびえ露出した大西山の山肌は、人間の力などとてもちっぽけに感じさせる威圧感がある。

崩壊した山肌がよく見える大西山(2023年7月筆者撮影)

中央構造線はプレートが集まり、そのダイナミックなエネルギーによってこの地域では大きな災害が度々起きる。

大鹿村中央構造線博物館の北川露頭はぎとり標本(ホンモノの断層…!)

その中でも歴史的に大きな被害を出したのは、1961年6月の豪雨災害「三六災害」だ。

「29日朝、大鹿村の大西山が大音響とともに崩れて山津波となって、大河原集落へと押し寄せてきました。山津波の速さは毎分1000m。これは爆発現象と同じスピードです。」(注2)そして死者行方不明者は42名にもおよんだ。

大西公園は、大崩落した大西山の被害があった跡地に作られている。犠牲者の供養と村の再建を願い1000本の桜が植えられ桜祭りが開催されたり、お盆の時期には花火大会も行われたりすることで多くの人が集まる。

驚いたのは大災害が起きた場所だから、ということで囲ったり閉鎖することなく、人々が集う場所として再建を行っていることだ。洪水は多いが、栄養豊富な山の水が谷に流れ、農作物を育てる。南アルプスの厳しい自然、逆に言えば豊かな自然とずっと共存してきた人々の無意識の表れであると感じた。

永続する杜と、共存する自然

同じ自然を有する空間において、自然とどう関り、表現するかは、それを創り上げ、対峙する人々の意識的・無意識的な時代精神と歴史的背景が根底にあると言える。

私たちがある空間の自然を、意識的に造作することもできるし、無意識的に関わることもできる。まちづくりを考えるときにも、自分の家の庭をいじるときにも、その意識と無意識が表れてしまうのだ。空間を考える際に、社会問題から自分の半径数メートルの問題まで、意識・無意識に表れる時代精神・歴史的背景の視点を忘れてはいならない。と同時に、何を残し、何を新しく創りたいか、その意思が空間をつくることに大きく寄与すると考えられる。

<注>
(注1)鵜野光博「100年の森-明治神宮物語」産業経済新聞、令和3年、P25
(注2)信州地理研究会「長野県の自然とくらし」信濃毎日新聞社、2002年、p219

<他、参考文献>
・今泉宜子「明治神宮「伝統」を創った大プロジェクト」新潮選書、2013年


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