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叶えようとしない願いがある

 春分が近づいてきて、ムーンプランナーを使っているわれら、切り替わりが近づいたな!とソワソワしている頃ですな。

 2月3月と、こんな記事がムーンプランナーさんから出されていまして。

 かなり遅くなりましたが、自分のルールや「保留していること」について、ちょっと書いておきたくなったので、自分語りですがよければおつきあいください。

★★★

 自分を振り返って考えてみた時、私は、自分が生きたい・なりたい姿というものをかなりの部分、実現できているんだなぁと気付きました。
 もちろん、ウィッシュリストを書けばいくらでも願い事が出てくる強欲な人間なので、あれも欲しいあれも買いたいあんなことをしたいという気持ちは常にあります。困ったものです。

 ですが「どんな風に生きたいですか?」という定番の質問の答えをちゃんと文章化してみると、それはほぼ、今の自分の暮らしと一致するのです。

 人間、自分のことは盲点になっていて意外と気付かないもので、そのことに気付くのにずいぶん時間がかかりました。ある日、本当に突然のある日、はっと気付いて愕然としました。「なぜああしたいこうしたいと駆り立てられてるのだろう? 願いの中心はほとんど叶っているのに」と焦点が合った瞬間の感覚が、今でも絵のように残っています。

 ああしたいこうしたいあれが欲しいとなるのは何故なのか。
 ひとつには、人間の生活はある程度の揺らぎを絶えず必要とするもので、静止した完璧というものは、瞬間でしか存在しないからでしょう。これは決して我執の迷いというだけでもなくて、自分も世界も常に移り変わっていくのだから、「留まっていようと思うなら全力で走らなくてはならない」赤の女王の真理という側面もあるのだなぁと思っています。
 もちろん、あんまりドーパミンに振り回されて遠くの星を追いかけ続けるのも、病的でよろしくはないのですが。

 もうひとつには、私の願いというのは、突き詰めると「自分でコントロールできる範囲外にある」からです。

 凡夫たる私には、人並みの承認欲求とか褒められたい気持ちとか評価されたい心とかが、いつもあります。
 では今までの人生で、外から見たらなかなかに評価されたとカウントされるであろう出来事には、結構遭遇しているのです。
 しかし、私の内面ではそれはカウントされていません。
 こういうと、「些細な欠点をスルーできない完璧主義」「満足感のない強欲」みたいなものだと思われるでしょうし、実際そういう側面もあるんだろうと思いますが、それだけに留まらない何かです。

 わかりやすく言語化すると、それは、
「相手の延長として能力を発揮したので、相手から評価されるのは自然な成り行きであろう、でも私の手柄ではない」
という感覚なのです。

 相手がこうしてほしいのだろうなぁとわかることを、その通りにしてあげて、相手が喜ぶ。その相手の喜びを共有できるのなら、話はシンプルに進むのだと思います。多くの人が仕事やボランティアの励みとして「相手が喜んでくれたこと」をあげる、その光景を、私は理屈として理解しています。
 相手の笑顔がシンプルに自分の喜びに直結する人が世の中にはたくさんいて、そちらの方が多数派なのかも知れませんが、私自身はその光景の中にありません。
 私にとっては、相手の喜びは、私と別個に存在しているものです。

 あらかじめ他人が喜ぶであろうと思うものや、相手の依頼や希望を汲み取って、それを現実化するためにあれこれやることは、極論すれば「私という存在を相手の道具として使う」行為です。
 もちろん私というものは孤立して存在している訳ではなく、他人との関係性や大きなコミュニティの中に存在しているのですから、相手の喜びはいずれ私自身に波及してくることもわかっています。なので、相手が悲しむよりは喜んだ方が、世界全体が良くなるという実感はあり、そういう回りくどい経路を通って、私は相手の笑顔を自分の肯定的感情に変換しています。
 それはタービンから生まれた電気が送電線を通っていくにつれ失われていくような、一番基本的だけどロスが多いシステムです。

 なので、私が「一般に言われるところの評価をしてもらった」場面での心境というのは、
「(あなたの道具になったのだから、あなたが喜ぶのはごく自然な展開で、別に私という人間に意味があった訳じゃないですけど、それはそれとして)喜んでいただけたのは幸いです」
というもので、()内を表に出すとあらぬ誤解を招くのでなるべく()内を表に出さないようにしています。

 私は、自分が読みたいものを読んで書きたいものを書いてやりたいことをやっている時が、一番充実しています。
 ただそれが、他人の喜びにつながったことが、ほとんどありません。
 よく「天職は好きなこと・できること・求められることの三要素が重なっているものである」と言われますが、それを読むたびに、「じゃあ私には天職はないな」と思います。

 自分の心が求めること好きなことをすると他人からはスルーされ困惑され、できることをすると作業感以外の感覚がなく、求められることは私の本質とは何にも関係ないなと感じる。その繰り返しが、私の職業経験でした。
 それは「まだ未熟だから」「すり合わせがうまくいっていないから」という言葉で説明できたらどんなによかったろうと思う、本当にやればやるほどちぐはぐになって心がバラバラになっていくような感覚でした。

 私が心から「評価された」と感じる場面は、「自分がやりたいことをやったら、それがたまたま他人にとって意味があることだったので、世界全体にいいことがあった」というものです。
 それはごくごく稀に起こるかもしれないけれど、基本的には他人の受け止め方は私が決めることではありません。
 なので、私はそれを目指すことの興味を、現在ほとんどと言っていいほど失っています。

 ただ、自分がやりたいことをやり続けて試行回数を増やしていったら、下手な鉄砲理論により、どこかで誰かの心に引っかかる場面があるかも知れません。という訳で、今の私はとにかく「自分がやりたいことをする」ということに力を注いでいます。
 試行回数を増やしたところで、別に誰の心にも触れない可能性の方が遥かに高いと思います。宝くじのようなものです。
 ありがたいのは、この宝くじは買うのにコストがかからないということです。当たりが来なくても別にいいやと思えるようになるまでには、それなりに時間と学習が必要でしたが。

 そんな訳で、今の私が「人に喜ばれる」という願いを叶えようと思っても、それは自分の努力の外にあることです。
 努力の外なので、自分でああだこうだしようとはもはや思わないのですが、さりとて願いがなくなるという訳ではないので、駆り立てられる感覚だけはいつまでも残っています。
 それが、私が今、満足できる生活を送りながらも、欲望がくつくつと泡立ち続けている理由なのだと思います。

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