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「独座観念」

明日の言葉(その6)
いままで生きてきて、自分の糧としてきた言葉がいくつもあります。それを少しずつ紹介していきます。


「安政の大獄」や「桜田門外の変」で有名な江戸時代の大老・井伊直弼は、どちらかというと独裁者的な嫌われ者のイメージで語られる。

でも、ボクの頭の中にある彼は、静かで謙虚。
ちょっと尊敬に近い念をもって眺めていたりする。

彼が茶の湯について語った、こんな言葉に出会って以来、ずっとそうである。

余情残心
一期一会
独座観念


一期一会、は、有名ですね。
茶の湯の言葉で、千利休の言葉とも言われている。

でも、余情残心とか独座観念は知らない人もいるかもしれない。

井伊直弼が著した『茶湯一会集』に書かれている言葉。
原文はちょっと難しいので、ボクの意訳を先に上げてみる。

茶席が終わり、主客ともに名残惜しく別れの挨拶を済ませ、客が露地にでたならば、もう声高に話さず、亭主は客が見えなくなるまで静かに見送るものである。

すぐ中潜り、猿戸、その外戸障子などを閉めてしまうのはよくない。今日の饗応が台無しになってしまう。

客が帰って行く姿が見えなくなっても、片づけを急いではならない。

心静かに茶席に戻り、炉の前に独り座って、「もうちょっと話がしたかったな、今頃はどの辺まで帰られただろう」などと思いながら、今日の一期一会が再び巡り来ぬことを観念する。
独りでお茶を点てて一服してもよい。これこそ一会の極意である。

この時、打語らうもの、釜一口のみ。
これは辿り着くのが実に難しい茶の湯の境地である。


原文だとこうなる。


主客とも餘情残心を催し、退出の挨拶終れば、客も、露地を出るに高声に咄さず、静にあと見かへり出行ば、亭主は猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也。扨(さて)、中潜り・猿戸、その外、戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決て、客の帰路見えずとも、取かた付、急ぐべからず。いかにも心静に茶席に立もどり、此時、にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉(まいらるべきや)、今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり。


おもてなし、と、よく人は口にする。

会っている間の接客・歓待の様を、そう呼ぶ人がほとんどだろう。

でも、きっと、「おもてなし」って、会っている間の接客・歓待だけをさすのではない。

人と別れたあと、しみじみと観念するに至る、こういう静かな境地までを含めて、そう呼ぶのだろうと思う。


もちろん、ボクはそんな境地に至っていない。

でも、好きである。
夜、人と会ったあと、独りでバーなどに流れて、もしくは家に帰ってリビングに座って、「楽しかったな。もう家に着いたかな」とか思いを巡らす時間が好きである。

コミュニティの集まりを自分のオフィス(元蕎麦屋)でやるときも、みんなを送り出したあと、さっきまで賑やかだった空間に独り残り、なんとなくひとりひとりのことを考える時間が好きである。

別に座さなくても、飲み会や仕事で人と別れて、街を独りで歩くときにいろいろ振り返る。そんな独りの時間が好きである。


もういい年齢なのに、シャイが直らず、会っている間はいろいろな想いを伝えきれない。
たぶんこれからも伝えきれない。

そんな残心も含めて、観念する。


独座観念。
今日の一期一会が、再び巡り来ぬことを、観念する。


なかなか難しいし、忙しいとすぐいい加減なつきあい方をしちゃうんだけど。

でも、こんな気持ちで、会う人ひとりひとりと、丁寧につきあっていければなぁ、と願っています。



古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。