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「白鳥蘆花に入る」

明日の言葉(その3)
いままで生きてきて、自分の糧としてきた言葉がいくつもあります。それを少しずつ紹介していきます。


今回取り上げるのは、青少年期のボクにもっとも大きな影響を与えたと言っても過言ではない言葉。

はくちょう、ろかに、いる。
漢文的に書けば「白鳥入蘆花」。

中学でこの言葉に出会って以来、ずっと心のどこかで「白い花に混じって姿が見えなくなる白鳥になれ。黒鳥になってはいけない」と、戒めている自分がいる。

なかなか難しいんだけど。
でも、ただ、蘆花に混じれ、黒鳥になるな、と。

蘆の花は白い。
葦(アシ、ヨシ。芦とも書く)の花と言ったほうがわかりやすいだろうか。ススキによく似た白銀の花。

その花が広く咲き誇る真っ白な蘆原に、真っ白な白鳥が舞い降りる。

ただそれだけの言葉である。
ほとんど禅問答だ。


でも、その舞い降りる姿を、映像で具体的に想像してみてほしい。


真っ白な蘆原に、真っ白な白鳥が舞い降りる。
すると、その白い姿は、白い花に混ざって見えなくなる。
しかし、その羽がおこす静かな風によって、いままで眠っていた蘆原が一面にそよぎ出す……。


つまり、白鳥は蘆花に溶け込み目立たなくなるが、静かに確実に周囲に影響を与えていく、ということだ。

静かな影響を及ぼしながら、自分はその中に入り込んで姿を消すのである。

いや、影響を及ぼそうという意識すらしていない。
ただ無意識に、集団の中に舞い降りる。

そして結果的に、羽がおこすさわやかな風だけが、静かに広がっていくのである。


この言葉は、数年に一回は必ず読み返す本、下村湖人著『次郎物語』に出てくる。

主人公の師である朝倉先生の家で開かれていた勉強会、今風に言うとコミュニティかな、その会場の座敷の床の間に、この言葉が書かれた掛け軸が掲げられている。

白鳥入蘆花

そのコミュニティの名前は、その掛け軸から取って「白鳥会」と名付けられている。

朝倉先生は言う。
(ちなみに、朝倉先生は、小説の登場人物ながらも、ボクの憧れのライフモデルだ)


お互いに、この白鳥の真似がしてみたいものだね。
しかし、なかなかむずかしいぞ。
それがほんとうに出来るまでには、よほど心を練らなくちゃならん。

自分の正しさに捉われて、けちな勝利を夢みているようでは、とても白鳥の真似は出来るものではない。
良寛のような人でも、『千とせのなかの一日なりとも』と歌っているくらいだからね。



もちろん、10代からずっとこの言葉とともに生きてきたからって、それが実行できているなんてことはない。

白い蘆原の中で妙に目立つ黒鳥になるなんてことはしょっちゅうだ。

自分のちっぽけな自意識が勝ってしまって、「私が影響を与えました〜!」ってこれ見よがしにバタバタと羽を動かすことすらある。

現実はひどいものだ。

でも。
たぶん、ボクは、これからもこの言葉と生きていく。

たぶん、これからも、この言葉に恥じない自分になりたい、と、もがき続ける。



ちなみに、ボクは4thというコミュニティを運営しているのだけど、このコミュニティに対するとき、常に「白鳥」がボクの胸の中にいる。

(白鳥を意識している時点で、ダメな気がしてきたがw)

でも、少なくとも、蘆花の中で悪目立ちする黒鳥にだけはならないように、と、心がけている。

たったこれだけのことが、なかなか難しい。

でも。
今日もまた、もがきます。

そう、千とせのなかの一日なりとも、まことの道にかなえばいいのである。




蘆の花というのは、いわゆる「人間とは考える葦である」の葦(アシ、ヨシ)の花である。
日本国の美称が『豊葦原(とよあしはら)』であるように、もともと日本は葦が豊富だったのだろうと思う。更級日記には、葦が馬上の人が隠れるほどに生い茂っているみたいなことが書かれているらしいから、背もかなり高い。
そうであるなら、確かに白鳥の姿は隠れますね。
Googleで画像検索すると、わりと茶色い花というか穂が出てくるが、根気強く見ていくと、真っ白な蘆原も見ることができる。

※※
この言葉は自著『明日のコミュニケーション』で、扉の言葉として引用しました。
ソーシャルメディア的世界(いい面だけ書くと、利他的でお互いに影響を及ぼし合う世界)にふさわしい言葉だと思ったから。


※※※
『次郎物語』は、人生で最高レベルに再読した本のひとつ。
いったい何度読んだことだろう。
たぶん20回ではきかない。
そして多大な影響をボクに与えてくれています。


古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。